PandoraHearts

□自我
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 なぜ、おまえはわたしなんだ。

 青白い声が耳を貫いた。それは、薄いガラスで遮られたその向こうから発せられたものだった。

 なぜおまえは、わたしなんだ。

 同じ問いを繰り返すその紅の両目は濡れていた。それでもその鋭い視線はガラスを突き破り、わたしに突き刺さるのだ。そこから読み取れるのは憎悪だけだった。暗く激しく燃え盛る憎悪であった。

 なぜ、おまえは生きているんだ。

 どうしてそうやって、のうのうと生きながらえているんだ。およそ騎士に似合わぬ短剣を握る手は震えていた。命を守る騎士が、命を奪うために自らの剣を振るうのは堪え難いものだったのであろう。鮮やかでどす黒い赤はその手だけでなく、その破れた服に、傷ついた身体に飛び散っていた。

 なぜ、おまえは。

 言葉が続かないその唇は、ひどく血の気が失せていた。唇だけではない。その顔は、ぞっとするほど白かった。それはまるで亡霊のようだった。いや、実際に、亡霊以外のなにものでもないのだ。わたしは己の顔がいつからか歪んでいたことに気がついた。同時に、喉の奥から冷ややかな声が滑り出た。

 わたしは、きみがきらいです。

 守れるものも守れずに、無意味にひとの未来を奪った、愚かなきみが。そう言い放った瞬間、その足が僅かに動いた。その短剣が、鈍く光った。しかし、あふれる言葉はとどまることを知らない。

 騎士のくせに。

 騎士のくせに、命を守れなかった。騎士のくせに、命を奪うために剣を振るった。騎士のくせに、きみは、奪う者になった。ああ、いくら剣を変えようと、変わりはないのだ。それが自分の振るう剣に変わりはない、それが、命を守ることができたであろう剣に変わりはないのだ。ああそうだ、騎士のくせに、騎士のくせに、騎士のくせに、きみは。

 黙れ、黙れ、黙れ。

 悲鳴にも似た咆哮がほとばしった。ガラスが砕け散り、砕けた破片と共に、その短剣がわたしの首に向かってきた。

 わたしは、わたしは、主のために。

 揺れる語尾が、泡のように溶けて消えていく。喉に触れた刃の冷たさだけが、いやに現実味を帯びていた。

 主はそれを、望んでいたのかい。

 刃がぶれた。生暖かな感触が、肌を伝う。その唇はわなないていた。言葉をつむぐべく息を吸い、しかし形を成さないままそれを吐き出す。それが、彼の呼吸だった。

 お嬢様は、それを望んでいたのかい。

 呼吸が止まった。その紅い視線が、揺らいだ。泣き出しそうに歪んだその目許が、あわれだった。

 そんなこと、わかって。

 金属が落ちる小気味よい音が響いた。やり場をなくした白い手がゆっくりと閉じられる。力なく振り上げられたその手は、どん、とわたしの胸に振り下ろされた。ああ、とその鈍い痛みに、唇が自然と動く。

 きみは、わたしなんですね。

 ケビン。床に崩れ落ちる彼の名を口にする。それはひどく懐かしい響きをもって、わたしの鼓膜を震わせた。

自我

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