PandoraHearts

□欲情
1ページ/1ページ




 ねろり。鼻を這う生ぬるく濡れた感触に、わたしは思わず身を固くして目を見張った。顔半分を隠す白銀を揺らしつつ、いたずらに舌をちらつかせる彼は、まるでわたしの仕事を妨害するかのように膝の上に座っている。先ほど諦めを滲ませて放ったペンは机の上でさびしげに転がっており、ああきっとしばらく使わせてもらえないのだろうとため息をついて彼に視線を戻した。まったく、だれの仕事をしていると思っているのだろうか、こいつは。ねえ、と呼んでくる声に多少ぶっきらぼうに応じると、自分のより少しだけ上に位置している眼が(ああ、それも今だけだが)猫のように細められる。いったいなにが楽しいというのか。
「おなかがすきました」
 そう囁いて、中性的、いやむしろ女性的な手がわたしの眼鏡を奪った。途端ぼやける視界の中、彼がそれを掛けるのが見える。目がわるくなっても知らんぞ、とたしなめても、彼はちょいと眼鏡をずらしたくらいで外そうとはしなかった。ゆっくりとその顔が近づき、唇がそっと触れ合う。
「おなかがすいたんです」
 聞いているんですか、ねえ。やわらかにかかる吐息が口元を湿らせる。焦点が合わないほど近い彼の目はそれでも紅く、かすかに情欲が滲んでいるのがわかった。その指先にスカーフがするりと外され、黒い制服の前を開けられる。
「飴くらい、持っているだろう」
「まあ、それでもいいんだけれど」
 彼のスカーフに手を伸ばしながらわざとらしく眉をひそめてみせると、彼はくすくすと笑って首を振った。ぱさりと白い上着を床に落とし、ブラウスのボタンに指をかけたと同時、その唇が艶やかに動く。
「きみがほしいんです」
 わたしの価値は飴と同じか。そう思うより先に、ああ鍵はかけていただろうかと扉に目を遣るわたしがいた。



 欲望ほど、底なしであるものはない。生存、繁殖、権力など望み始めればきりがないものばかり動物は欲するのだ。それはわたしであれ彼であれ例外はなく、それを抑制することこそが理性を持つ知的生物の取り柄であるのだろうと、わたしはわずかに残されたその理性で妙に醒めた思考を展開する。
 潤んだ視線がわたしを見上げている。背中に立てられた爪に力がこもり、もっと、と喘ぐその声に翻弄されてゆく。彼が欲しいほしいと叫ぶ本能はとりつかれたかのようにわたしの身体を操り、熱を持った彼の内側を強く擦った。そうしてそれにたまらないといった風にうち震える彼の身体は、きゅうとわたしを締めつけてこちらの息までもを詰まらせるのだ。それでもまだたりない、まだほしいのだと駄々をこねる欲望に、これではもはや性欲などではなく物欲ではないかと我ながらあきれ返る。ぎしり、ぎしりと仮眠用の簡易ベッドが悲鳴を上げ、彼に放られた眼鏡は今まさにその端から落ちようとしていた。
「…ザクス」
 すきだ。いつもなら決して言わない言葉が、唇の隙間から転がり落ちた。すきだ、すきなんだ。告白のまがいもののような幼稚な台詞を吐きながら、その肢体を掻き抱く。かしゃん、と眼鏡が落ちた音と共に重ねた唇は、すこしだけ弧を描いていた気がした。彼の爪が、背中に深くふかく食い込んでくる。まるでそれを裏づけるかのように、きつく、きつく、きつく。
「ザーク、シーズ…」
 ああ、欲しい。彼が欲しくてほしくてたまらない。目がくらみそうなほど強い欲望にかられ、むさぼるように彼の口腔を荒らす。ああすきなのだ。すきですきでしかたがないのだ。ゆらゆらと揺れる紅がなにかを訴えかけるようにわたしを見つめてくる。求められているのか。背中にはきっと血が滲んでいるのだろう、痺れるその痛みにさえ今は恍惚となった。求められている。求められているのだ、彼に。
(それでもまだ、満たされない、などと)
 そう思うわたしはすでに余すところなく欲望に染まりきってしまったのだろう。すきだ、もう一度そう告げて触れるだけの口づけを落とす。ずきんと背中が痛み、そうして返ってきた囁きに、最後まで残っていたほんのわずかな理性が、塗りつぶされたような気がした。

欲情

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ