PandoraHearts

□溶けて、解けて、融けて
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 がらがら、がらがら、がたん、がらがら。限りなく一定に近いリズムが、あたかも遠くから近づいてくるかのように聴覚を刺激する。それと共に揺れている馬車の中で、わたしはふと目を覚ました。
(寝て、いたのか)
 いつの間に、と我ながら呆れつつ、ぼうっとして壁に掛けられたカンテラの揺らめく灯火を眺める。暗い窓は鏡のように、対角の窓際に座るわたしとその肩に寄りかかる彼を映し出していた。穏やかなその寝顔は、あまりにも無防備にさらされている。
「…ザークシーズ?」
 そこでやっと、わたしはずしりとした重みが肩にかかっていることに気がついた。目を落とすと、彼の頭が今にも落ちてしまいそうにぐらぐらと揺れている。こいつがうたた寝をするなんて、珍しいこともあったものだ。明日は大雪か、などとくだらないことを思いながら、膝の上の鞄を直す。そうしてそっとその頭を肩から下へと引き寄せて、わたしの腕の上に落ち着かせた。
「まだ、寝ていろ」
 ん、とも、む、ともつかない唸り声(ああ、それは決してかわいらしいものではなかったのだ)にそう囁くと、彼はもそもそと体を動かし始めた。そしてしばらくして、落ち着く姿勢を見つけたのか満足げに息をつく。いったい、普段の隙のない彼はどこへいってしまったのか。そこにあったのはただただ眠気に誘われるがままに寝ている彼の姿だった。
(…それにしても)
 よく、寝ている。以前に眠りは浅い方だと言っているのを耳にしたことがあるが、たしかに倒れた時以外で彼が寝ているのを見たことはなかった。酒と同様に気が抜けないのだと笑うそれは、はたして不可能の意であったのかそれとも自戒であったのか。がたん、と馬車が揺れ、細い銀糸が腕に広がる。無意識に指を絡めたその髪は見た目よりやわらかで、まるで彼のうつくしさそのもののようだった。
「…レイム…さん…」
 寝言か呼び声か、判然としないそれと共に、腕に頬ずられる。それに癖のついた髪を撫でてやれば、安心しきったような吐息の音が聴こえてくるのだ。馬車の中に充満したひどくぬるい、ぬるい空気に、くらりと脳の裏側がひっくり返されたような感覚に襲われる。ああ眠気の元はこれかと妙に納得しているその時点で、わたしはすでにこの空気にすっかり支配されていたのだが、そのようなことを自覚できる醒めた己など残されているはずがなかった。
「…ザクス…」
「なんですか…?」
 不意にそう返されて、彼の頭に置いていた手が強ばる。ゆったりとした動作で起き上がった彼は、どことなくほうけているように見えた。
「寝ていたんじゃあ…なかったのか」
「ええ、寝ていたんですけどねえ」
 きみがかまってほしそうにしているから、と苦笑を浮かべる彼に、自然と眉間にしわが寄るのがわかった。だれがそんなこと、と反論しようとして、しかし視界をなにかに遮られる。
「また、こんなにしわを寄せて」
 ちゅ、と額に落とされた独特の感触に、あのぬるい空気が床からたちのぼってきたような気がした。どこからか漂ってくるえもいわれぬ甘い香りに、どくりとひときわ大きく鐘が鳴る。わたしの襟髪に触れてくる彼の手の爪先が、なにかを誘うように首筋をやわく引っかいた。
「ザークシーズ…」
 息だけで彼の名を呼びその長い前髪を掻き上げて、流れ落ちるそれと共に頬を撫でてやれば、かすかに顔をしかめてやめてくださいと首をよじる。それでもしつこく触れていると、堪りかねたのか彼はわたしの首にするりと腕を巻きつけてきた。そして鼻先に漂う、毒々しいまでのあの香り。
「なにか、香水でも…つけているのか」
「いいえ…どうしてです?」
「…甘い、匂いがする」
 おまえから、と彼の鼻と鼻を擦り合わせて言うと、くすぐったそうに彼がくすくすと笑う。ケーキの匂いじゃあないですか、さっき食べていた、あの。そう彼は言ったが、そんなわけがないのだ。これはそんな程度のものでは、ただただ甘ったるいだけの香りなどではない。根拠もなにもないそんな確信めいた思いが脳内を支配する寸前に、彼はぴとりとその冷えた頬をわたしのそれにくっつけた。そのとき視界に入った白い、しろく細い首筋に、ぞくりと全身に痺れが走る。削ぎ落とされていく理性は、どっと押し寄せる欲望に打ち勝てはしなかった。
「…レイ、ム…さ」
 唇を合わせるだけでは飽き足らず、その内側の粘膜を求めて深くふかく彼の口腔に舌を伸ばす。匂いに冒された嗅覚はもう使い物にならなかった。がたん、がたん、揺れる馬車と共に彼の身体が揺れている、ということはきっとわたしも揺れているのだろう、ずるずると膝の上から鞄が落ちていく。それを拾うのも、抱き寄せた彼から離れるのも億劫で、そのうなじに鼻を擦り寄せて、その柔肌にきつくそっと歯を立てた。ああ、どちらかはわからない、ただ彼が上げた声は甘くあまく耳をも冒していくのだ。それにたまらなくなって手をその身体に滑らせて撫で回し、ああ、脈絡がない、まったく脈絡がない。わたしはいったいなにがしたいのか、わたしは、わたしは、ああ、まったく、もう。
(とけてしまいそうだ)
 馬車の座席にもつれあって倒れ込み、強烈な眠気に目を閉じる。最後に見た光景は外套をはだけたまま眠り込んでいる彼の姿であったのだが、いつわたしがそれを脱がそうとしたのか、そもそも彼は眠れない体質ではなかったのか、そんな疑問さえ、そのときのわたしに浮かんでくることはなかった。

溶けて、解けて、融けて
(もっと、もっと)
(わたしを、とかして)

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