PandoraHearts

□損失と獲得
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 生きたい。そう男は言った。記憶を砕かれた男は、彼であって彼でない男はそう呟いた。

 生きたいんだ。己の罪さえ忘れた男はそう震えた。唇を血で濡らし死の足音を聞いた男はそう取り縋ってきた。

 これは、もはや知り得ぬはずである彼の過去の姿か。それとも、生存本能に理性を突き動かされ声を発しているだけのヒトであるのか。片方の欠けた紅い光の受容器が、まるでなんの力も持たない幼子のそれのように揺れ動く。ああ、ああと男はまた喉を震わせた。

 教えてくれ。男はその細枝の腕を上げてわたしの胸倉を掴んだ。教えてくれ。おしえてくれ。わたしはなぜ、死なねばならないんだ。

 それはおまえ自身が課した罰ではなかったのか。のうのうと生きていくのではなく、命を削り苦痛に苛まれそれでもなお生きていかねばならないと己を縛り上げたのではなかったのか。手がその白磁の頬を打ちすえようと動きかけ、わたしはぐっと掌を握りしめた。違う。この男はもう、彼ではないのだ。彼であった証を奪われた、ただの彼の抜け殻であるのだ。男が手を離す。離して、そうして、その場に膝を、手をついて嗚咽した。

 頼む。男はそうむせび泣いた。後生だから教えてくれ。わたしは、わたしはなにをしたんだ。この眼窩も、刻印も、なにも教えてはくれないんだ。だから頼む、わたしは。わたしはいったい、だれなんだ。男の肘が折れ、続く悲痛な叫びが遠く、くぐもっていく。

 ザークシーズ。そうわたしはその嘘偽りの名を呼んだ。足許でうずくまる、今となっては見知らぬその男に向かって囁いた。男は気づかない。己が呼ばれているということさえ知らず、ただ狂ったように、床に爪を立て幾度も幾度もそこを掻きむしっているだけであった。

 生きたい。そう禁句を口にする男に、わたしは初めて人間の姿を見た。

喪失と獲得
(この歓喜はいかほどか)

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