PandoraHearts

□道化師の仮面
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 こんこんという部屋の扉を叩かれる音で、目が覚めた。冷や水を浴びせられたかのように、はっと体を起こす。仕事中にもかかわらず、いつのまにか書類を枕にして眠っていたようだった。
「どうぞ」
 残っていたコーヒーを飲み干しやっとのことで頭を起こして、ノックをした誰かに声をかける。入ってきたのは部下の男だった。
「失礼致します。“踊る人形”事件についての資料をお持ち致しました」
「ああ…手間をかけたな。ご苦労だった」
「…いえ」
 資料を渡し終わったというのに、いまだ男はなにか言いたげな目でこちらを見つめてくる。どうかしたかと促してやれば、それが、と彼は声をひそめた。
「ザークシーズ・ブレイクがまた、職務放棄をして行方不明とのことで…」
「………またか」
 聞き慣れた名前に、思わず眉根が寄ってしまった。近頃やたらと、ザークシーズの姿が消えるとの噂が耳に入ってくる。いや、彼に対しての罵詈雑言その他大勢の噂などがあるのはもはや当然で、むしろわたしに直接流れ込んでくることもしばしばだ。きっと今回のこれも、ふらふらと蜃気楼のように現れては消えるのを皆が気味悪がっているだけだろう。というより、職務放棄とはいったいどういう了見だ。まさか、部屋に大量の書類が残っているのではあるまいな。
「…いかがいたしますか」
 もしかして、と口角をひくつかせて男を見ると、その通りだと言うように尋ねられた。ああ、また、いつもの流れか。ため息をつかずにはいられない。
「…わかった。彼の仕事はわたしが引き継ぐ」
「申し訳ありません」
 頭を垂れる男に、きみが謝ることではない、と首を振って下がらせる。そうだ。謝るべきはあいつなのだ。いつもいつもわたしに仕事を押しつけて(ほとんどが今のように断れない状況をつくりあげてくるのだ)、自分だけ好き勝手に動き回りやがって。そろそろ、ひとこと言ってやらねば気がおさまらない。
 きりきりと痛む胃を押さえてペンを置き、わたしは部屋を出た。怒りにまかせて廊下を歩いていくも、ふと気がつく。
「…どこにいるんだ、あいつは」
 ああ、頭が痛くなってきた。



 パンドラ本部内を歩き回ったものの、やはり行方不明というだけあって、彼の姿は見あたらなかった。まったく、ほんとうに、どこへ行ったというのか。あまり勝手をするなと言ってあるのに、とため息をひとつついて来た道を戻ろうと踵を返す。そのとき、向こうから同僚の男が歩いてくるのが見えた。
「やあ、レイムさん。なにをしているんだ、さっきから」
「いや、ザークシーズ・ブレイクを捜しているんだが…」
 その名前を出した瞬間、男の顔に同情の色が一気に滲み出た。行方不明なんだろう、と訊いてくるのに頷くと、急に彼が思慮深げに目を細める。そして、どこかいたずらに笑ったかと思えば、ひそひそと耳打ちをしてきた。
「ここにはいないね」
「…知っているのか?」
「いや、本部から抜け出して町に出たのを見ただけだ」
 町に出た。そんな思わぬ言葉に、唖然としてしまった。本部外に出ている可能性など、考えてもみなかったのだ。してやったりと口角を上げる同僚に、我に返り慌てて不可思議なことを訊く。
「それが、なぜ噂にならなかったんだ?」
「見ていたのはおれだけだったからさ」
「…だれかに言おうとは、思わなかったのかね」
 それでなくともパンドラの職員は噂好きだ。この男も例外ではなくそうではなかったか、とそちらを見遣れば、とたんに彼は笑いだした。笑いながら、こちらに背を向ける。
「きみにしか言う気はなかったよ」
 言い甲斐がいちばんあるじゃあないか、などとふざけたことを言い残して、男は立ち去った。どういう意味だ、それは。からかい甲斐があるということか。
「…しかし、町か…」
 そんなところで、いったい彼はなにをしているというのだろう。



 疑問に思ったことがあっても、なにも訊かず黙っていなければならないという場面が立場上多かった。特に彼に関しては、なにかおぞましい影を秘めているようで、なにか問おうとしても、その問いが彼の中の影を呼び覚ましてしまいそうで恐ろしかったのだ。あの刻印のことも、過去のことも、あれ以来なにも話していない。
「町と、ひとことに言われても…」
 下町の喧騒の中を行く宛てもなく歩き回る。文句を言ってやる気はもう失せた。だが、気になったのだ。彼が、どこでなにをしているのかが。
(違法契約者だと、知ったからか?)
 ひとの心など、ちょっとしたことで変わるものだ。くだらない噂、秘密の露見、感情の衝突。どんなことがあろうと自分の心は揺らがないと豪語していても、いざそれらに直面すると、いとも簡単にひらりと手のひらを返す。そんな者を、わたしはこれまでにごまんと見てきた。
(わたしも所詮、そんな人間か)
 違うと否定したかった。けれども、彼の過去を垣間見て、なにも思わなかったわけではなかった。いいや、なにも、思わないわけがないのだ。なにも、感じないわけがない。では、ならば、なにがどう変わってしまったのか。彼の秘密のどの部分に、わたしはどういった風に揺らいでしまったというのだろうか。
「…なんだ?」
 思考を止めたのは、大きな人だかりが目に入ったからだった。時折驚喜と感心の声が聴こえるそこに近づいてみると、見覚えのある白い頭が、ちらりと見えた気がした。
「ザークシー…」
 近づいて名を呼ぼうとした途端、わっと歓声があがった。空に向かって、五羽の白鳩が飛んでいく。沸き起こる拍手、飛び交う貨幣、そして、散っていく人々。視界を遮る人垣が消えたそこでは、すらりとした線の細い男が、今の今まで捜していた彼が、深々と頭を下げていた。
「ピエロさん」
 その隣で座っていた小さな女の子が、立ち上がって彼を見上げた。顔の左側を仮面で隠している彼は、わたしに気づいていない様子で、女の子に向かってしゃがみこむ。
「もう、一回…」
 ぼそりと呟く女の子に、彼は微笑んだまま、空っぽの手を差し出す。しかし次の瞬間、なにもなかったはずのその手には、棒つきの大きな飴が現れていた。
「ほら、あげますよ」
 驚く女の子に飴を握らせ、頭を撫でるその手つきと声音に、なんとも言いようがないものが、喉元まで駆け上がってくる感覚がした。どうしてかいたたまれなくなり、その光景から目を逸らしてあらぬ方向へと歩き出す。そうしていつのまにか、路地裏の壁に背を預けていたわたしは、手で左胸を掴んでいた。
(あれが、違法契約者だと?)
 あれほど、やさしい男が。ひとに対して、あれほど、いつくしむように触れることができる男が、やわらかく声をかけることができる男が、違法契約者だというのか。どくどくと血を送り出す心臓を掴んだまま、いいや、とわたしは首を振った。
(それだから、違法契約者なのではないのか)
 そのやさしさゆえに、身を堕としてしまったのではないのか。そのやさしさが作り出した心の隙間に、つけいられたのでは。そうでなければ、辻褄が合わないではないか。あんな顔で、かなしげに眉を、頬を、唇を、かすかにゆがませて笑おうとする彼と、釣り合わないではないか。
(なぜ、そうまでして笑うんだ)
 初対面の者なら、わからないだろう。あのごくわずかな、笑顔のひずみなど。だが、先ほどの彼の顔は、あの女の子に向けた微笑みは、彼と長く時を共にしているわたしには、決して見れたものではなかったのだ。ずる、と背中が壁を滑り、膝が曲がる。
「なにをしているんです、こんなところで」
 座り込んだわたしの前に、細い素足を包んだ靴が現れた。ゆっくりと顔を上げようとするも、ぐっと胸がつかえて思うように動かない。
「…なにを泣くんです」
「泣いてなど、いないだろう」
 目が潤みもしていなければ、頬が濡れもしていない。だのに、彼は言うのだ。
「全身で、泣いているじゃあないですか」
 そっと、肩をさすられた。頬を包もうとする手に導かれ、やっとのことで目を上げると、紅い眼と視線が絡む。乾いた目元を、彼の指先がなにかを拭うようになぞっていった。
「あの、子どもは…」
「…やっぱり、見ていたんですね」
 その言葉に、ああ、と紅玉が嵌め込まれた左の仮面に手を伸ばす。そうして取り外してやれば、留めてあった前髪がさらりと落ち、貼りついたような笑みが再び半分ほど隠れた。苦々しい思いでそれを見ていると、彼はふとその目を伏せる。
「…似ていたんです」
「誰に…」
「お嬢様に」
 シャロンお嬢様では、ありませんよ。そう言った彼の唇は、ひどく血の気が引いて見えた。
「ザークシーズ…」
「きみには、まだ話していませんでしたね」
 もう、いい。なにも語ってなど、くれなくともいい。言ってやりたいのに、制してやりたいのに、わたしの口は、喉は、声を形作ろうとしてくれない。そうしている間に、彼は、静かに静かに口を開いた。
「…むかし、むかし、シンクレアという家に仕える、ひとりの騎士がおりました…」
 殺された主たち。生き残った幼い主の娘。違法契約。変わった過去。壊滅した一家。そして、自らの手で消し去ってしまったその娘の命。そんな凄惨な彼の過去が、彼自身によって、まるで他人の伝記を読むように、淡々と、語られていく。目を閉じ、少しかすれた声で話される内容に、わたしはひとつも動けず、ただただ彼を見つめていることしかできなかった。
「…まあ、こんなところでしょうかねえ」
 それでもいたって穏やかに話を結び、彼は瞼を開く。その瞳が一瞬、ほんの少しだけ、疲れたように虚ろになったのに、わたしは気づいてしまった。
「…おまえは…」
 言いかけて、その先の言葉を見失った。つらかったのか。くるしかったのか。彼女を重ねてしまったのか、あの女の子に。辺りを必死に捜しても、目につく言葉は訊いてもしかたのないものばかりで、情けなくまごついていたわたしは、どうしようもなく口を震わせていた。そこに、ころんと、なにかを押し込まれる。
「だから、なにも、泣くことなど、ないでしょうに」
 泣いていない。決して、泣いてなど。言い返そうとして、わななく唇に、塩辛いなにかが滑り込んだ。先に入っていた飴玉の甘さとそれが、奇妙に混じり合う。めちゃくちゃになった想いがもどかしく胸を突き上げて、覚えず、頬を撫でる彼の手を、腕を、掴んでいた。そして、掴んだ腕を力一杯に引っ張って、彼を引き寄せていた。
「ザークシーズ」
 倒れ込んできた彼の背に腕を回し、強く抱きしめる。
「ザーク、シーズ」
 壊してしまいそうなほど、強く。
「ザクスっ…」
 何度も名前を呼んで、強く、強く抱きしめる。やっとわかったのだ。自分がどう変わってしまったのか。どう揺らいでしまったのか。やっと、理解したのだ。どうして、こんなに胸が締めつけられるのか。柔らかい彼の髪に頬を寄せる。彼は、黙ったまま、動かない。
 ああ、彼にすればこんなことは同情でしかないのだろう。そんなことなど百も承知だ。ほんとうならば、そんな感情すら持ってはいけないのだ。彼は、ひとをころしたのだから。許されることではない。決して、許すべきではないのだ。
(だが、そうだとしても、それでも)
 彼の姿に、せつなくなる。己の罪を誰にも被せずに受け止め、その罪を償うがごとく、毅然として真実を追い求める彼の姿に。許してはいけないと言い張る自分を押しのけて、彼の力になりたい、彼を守りたいと、そう思ってしまうのだ。
「レイムさん」
 小さく小さく、彼が呟いた。か細く震えた声で、わたしを呼んだ。
「わたしは、違法契約者ですよ」
 顔を上げないまま、彼はそう告げた。なにもかもを見透かしたように、事実を突きつけてきた。
「泣く資格さえも、ない男なんです」
 それでも、きみは。静かな問いは、胸の奥底に染み込んで、まるで陽射しが氷を溶かしていくように、その“たが”を外していく。そして、いつからかそこにしまいこんでいた想いが、一気にあふれだした。
「わたしは!」
 自分の出した声の大きさに思わず怯んだ。そうして、言ってもいいものか、そんな迷いが今さらになって脳裏を駆け巡る。しかし、止まることを知らない言の葉は、自信を失った唇を強引に動かした。
「おまえのそばにいられるなら…それだけで、いいんだ」
 しん、と静寂が落ちてきた。心の臓の高く鳴る音が、いやに大きく響いている。しばらく彼は身じろぎさえしなかった。それからどれくらいたったのだろう、五分、十分。ひょっとすると、一時間であったのかもしれないし、数秒であったのかもしれない。時の流れがまったく感じられないその中で、ようやく彼は、緩慢に顔を上げた。
「ほんとうに、きみってひとは…」
 その頬を伝っていた一筋の涙が、わたしの視線をくぎづけにした。形のいい眉が困ったように寄せられて、口元は微笑むように弧を描いている。その、彼が持っていた最後の仮面は、彼と目が合った途端、一瞬にして崩れ去った。
「不器用、なんですから…!」
 極端にうわずったその声は、嗚咽に紛れ、宙に消えていく。肩に触れる手、弱々しくすがるように握られる服。伏せられる前に見たその顔は、確かな彼の表情だった。それは、遠い昔に見た彼の荒々しい顔つきをも超える、彼自身の表情であった。
「…レイムさん…」
 濡れた眼がわたしを、内側になにかを見い出すようにじっと見つめてくる。こつん、と額がぶつかり合い、彼は、ひそりと、かすかに囁いた。
「…ありがとう」

道化師の仮面

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