PandoraHearts

□相愛傘
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 扉から一歩外に出ると、土砂降りの雨がわたしたちを出迎えた。咄嗟に鞄の中を覗いたが、そう都合良く入っていないのが折り畳み傘というものだ。予想を裏切らない結果に落胆していると、あーあ、と彼が隣でため息をつくのが雨の騒音に混ざって聞こえてきた。
「やっぱり降っちゃいましたねー」
 本部を出たときから雲行きが怪しかったんですよ、と音に負けじと声を張って言う彼に、わたしは頷きながら訪れていた支部の扉を振り返った。見送りについてきていた職員が、少し背筋を伸ばす。
「すまないが、馬車を借していただけないか?」
 そう訊いたとたんに、職員が申し訳なさげに眉を下げた。話によると、わたしたちと同じような者が他にもいて、この支部の馬車はそのせいですべて出払っているということだった。なまじ本部から近いため、徒歩で来てしまったのが運の尽きといったところか。渋い顔をしていたのだろう、しきりに頭を下げてくる職員に、彼が思いついたように言った。
「傘は、ないんですか?」
「…傘、でございますか。それなら…」
 そう言いつつ室内に消えた職員は、しばらくして先ほどより情けない顔をして戻ってきた。後ろ手になにかを隠しているような素振りに、すかさず彼がひょいと職員の背中を覗き込む。
「ああ、これはひどい」
 いかにもおかしそうにそう言うと、彼は職員の手から隠されていたものを掠め取った。彼の腕にぶら下げられたのは婦人用を思わせるレースのついた薄紅の傘で──もとい、婦人用のそれに他ならなかった。
「…申し訳ございません、今はそれ以外に…」
「貸し出し中、というわけか…」
 はい、と再び頭を垂れる職員がいい加減不憫に思えてきて、しようがなくその派手な傘を借りることにした。一刻も早く立ち去りたかったのだろう、ぺこりと一礼をして中に入っていく職員の姿を見送れば、ざあっと雨がより一層強くなった気がした。
「ほら、帰りますよ」
 苦笑しつつ傘を広げた彼に手を取られる。そうして激しい雨の下に歩み出たはいいが、女性が使うというだけあって幅の小さいそれは、やはり大の男二人が使うには狭すぎた。瞬く間に右肩が濡れ、彼のひらひらとした上着の裾もすっかり水を吸ってしまっている。一歩進む度に頭が傘の骨にぶつかり、どうやらわたしより八センチほど背の低い彼がさしているというのも、無理があるようだった。
「…貸してみろ」
 彼から傘を奪った、そうするとその白くしなやかな両手が左腕を抱え込んだ。突然なことにぎこちなくそちらを見遣ると、彼の口元が柔らかな曲線を描く。
「このほうが、一緒に入れるでしょう?」
 腕を頼りにそっと寄り添われて、身体の隙間がぴたりとあたたかく満たされるのを感じた。そうだな、と答えつつ、思わず彼から目を逸らす。ふわりとしたその笑顔に、見とれてしまった自分がいた。
 ざあざあと降りしきる雨は止む気色を見せず、ただただ足元を濡らしていく。自然と歩調が緩まるのと共に、彼に触れている場所が小さく脈打っているのがわかった。服越しに彼のぬくもりを感じ、あれほど耳障りだった雨音が急に遠くなっていく。自分の息遣いが、彼の息遣いがいやに響いて、知らぬ間に、わたしは息を殺していた。傘の中というわずかなこの空間が、まるで周りから切り離されているような、ほんの少しの空白を置いて隔たれているような、そんな錯覚がしてならなかったのだ。
「ザークシーズ」
「なんですか」
「…いや」
 少し、遠回りをしないか。言いかけた言葉を飲み込んで首を振ると、彼はなにを思ったのだろう、腕を掴む手がするりと下に滑った。持っていた鞄を奪われ、手袋を外される。なにを、と胡乱な目を彼に向けたとたん、手に冷たい彼の指が絡んだ。
「あっ」
 出していた足が強ばり、避けようとしていた水溜まりを勢いよく踏みつぶした。どうしようもなく立ち止まり、顔を上げれば、彼がおかしくてしかたがないと言うように口をむずむずさせている。しかしその数秒後、中途半端に手を触れ合ったまま、ついに彼は笑い出した。
「なにを笑うんだ!」
「…だって、きみ、そんなに、いちいち…」
 驚かなくても、とくすくす笑い続ける彼に、わたしは腹立ち紛れにその肉付きの悪い手を強く握って歩き出す。おまえの為すことすべてにこちらはどきどきさせられるのだ、だからこちらも心臓がもたないのだ、などと言ってやることができたら、どれほど楽になれるのか。ちょっと待ってくださいよ、と彼に手を引っ張られ、再び立ち止まる。建物の間を縫うように、石畳が脇道を作っていた。
「回り道、していきませんか?」
 思わぬ言葉に、毒気を抜かれたような心地がした。どうしました、と顔を覗き込まれ、自らのばかさ加減に笑いがこみあげてくる。まったくもって、彼にはかなわない。こうもさらっと、こちらが言いたかったことを言ってしまうとは。返事の代わりに手を握り直してやると、彼はうれしそうに微笑んで、それを握り返してきた。こんな些細なことにすら眩暈を覚えるのだから、質が悪い。
「職務放棄には、ならないんですかねえ」
「帰っているのに変わりはないだろう」
 揶揄するような声にそう返して、さりげなく、傘を彼の方に傾けた。すかさず、彼がふざけた調子のまま笑う。
「風邪、ひかないでくださいよ」
「…うるさい」
 右半身がずぶ濡れになろうが、おまえが濡れないのならそれでいい。だけれど、こんなこと、面と向かって言えるわけがない。
「───」
 なにごとか呟いた彼の声は、雨に掻き消され、わたしの耳に届くことはなかった。

相愛傘
(ほんとう、正直じゃあないんですから)

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