PandoraHearts

□どっちもどっち
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 彼は堅物だ。
 周りの者こそ、真面目だ、信用に値する人物だと言うものの、わたしにとっては融通の効かない、ただの堅物でしかない。眼鏡を拭きつつ奔走する彼に尊敬の眼差しを送る者も少なくないが、わたしがその中のひとりに含まれるかと問われてもそんなわけがなかった。
 ああ、むしろ、ばかなのだ。彼は。真面目すぎるから、こちらがいやになるのだ。いいや、真面目というものをけなしているわけではない。そうではないが、やはり少しは柔軟になってもらいたいときもあるだろう。だが、彼にはそれがまったくないのだ。気を抜くことを知らないのか、ただの仕事病なのか。
 こんこん、と扉をノックして入ってきた彼の姿にため息をついてしまったのは、こんなことを考えていたからだった。少し硬い彼の表情が、こちらを見た途端にますます切迫したものになる。高い熱に身体を動かすのも億劫で、ベッドに横たわったまま、近づいてきた彼を見上げた。
「…シャロン様の次はおまえか、ザークシーズ」
 表情とは別にあきれたように言われて、こめかみがひくりと引きつった。普段ならうまく流せるじゃあないかと自分に言い聞かせつつも、内心から不満がじわじわと滲み出てくる。そりゃあ、風邪をひいた彼女につきっきりで看病をしていれば、うつされるのも当然だろう。熱のせいか気分が不安定なこちらをよそに、彼は部屋を見回しながら訊いてくる。
「だれも、ついていないのか?」
「…医者はさっき、帰りました」
 喉の痛みをこらえて答えると、彼がその短い眉を寄せるのが見えた。ほんとうはシャロンが看病をすると言って聞かなかったのだが、今度はわたしが風邪をうつしてしまうからと説き伏せて部屋に返したのだ(もっとも、彼女の“看病”というものがどんなものか、考えるだけでもおそろしかったという理由もあったのだが)。
「…しかたない、ほかにだれもいないしな…」
 小さくそう呟くのに、ああ、とわたしはひそかに苦く笑った。まただ。そうやってさりげなく、口実を持ち出してくる。心配でたまらないのだ、だから傍にいたいのだと、そう言ってくれればいいものを。なんにでも理由をつけたがるのは、仕事上の癖なのだろうか。
「…薬は飲んだのか?」
 水の注がれたコップを差し出され、頷きながら渋々重い身体を持ち上げた。額に乗せていた濡れタオルがなんの抵抗もなく膝に落ちるのに、彼は黙ってそれを手に取る。水を口に含んでぼんやりとそちらに目を遣ると、器に浸けたタオルをいやに高い位置で絞るのが見えた。滴る水が器からこぼれ、机がみるみるうちにびしょびしょに濡れる。
「………」
 ああと小さく呻くと、なにを思ったか彼は絞ったタオルで机を拭き始めた。しかし半分ほど拭き終わったところで、あっと鋭い声を上げる。そうしておそるおそる振り返ってくる彼が滑稽でたまらず、わたしは忍び笑いを堪えきれないまま首を振っていた。
「…すまん」
 相当狼狽した様子で、身体を横たえるわたしの背中を支えてくる。いったいぜんたい、なにをそんなに動揺することがあるのか。前髪を持ち上げ、申し訳程度に絞り直したタオルを額に乗せてくる手が、かすかに強ばっていたような気がした。離れていくその手を不意に掴みたくなって、いまいち力の入らない腕を上げようとしたが、それはできなかった。
「…レイムさん?」
 ひんやりとしたものが、頬を撫でたのだ。それが水で冷えた彼の手だとわかったときには、彼は屈んでわたしの目を覗き込んでいた。囁くように名を呼ぶと、余裕のない表情でわたしを見つめてくる。
「…大丈夫か」
 真剣なその声に、ああ、とわたしは笑いそうになった。動揺するもなにも、さっき自分で、文句を垂れていたではないか。心配ならば心配だと言えばいいのになどと、ばかなことを思っていたではないか。そんなことくらい、彼が言えないことくらい、わかっているはずなのに。ああそうだ、彼は真面目であるから言えないのではない、彼は、ただただ不器用であって、それだからなにも言えないのだ。不器用であるから、こちらが汲み取ってやらないといけないのだ。
 大事なものに触れるかのように親指でやさしく頬を撫でさすられて、あまりの心地よさにじんと胸が熱くなった。声も出せずにただこくりとうなずくと、彼は目元を緩ませて、そうか、と呟く。
「あまり、無理をするなよ」
 あまい声音に、意識が余計にぼうっとした。髪をすかれ、自然と瞼が下がってくる。
「………仕事は…大丈夫なんですか」
 ふと思いついたことを舌の回らないまま呟くと、病人がいらん心配をするな、と言いながらも彼がかすかに眉を寄せるのが見えた。きっと、部屋に鎮座する書類の山を想像したのだろう。けれど、わたしが訊きたかったのはそんなことじゃあなかった。
「あなた、ほんとうに…ばかですね」
「…なにがだ」
 眉間の皺をさらに深くした彼に答えようとして、睡魔に負けたわたしはそのまま眠りに落ちた。

どっちもどっち
(ずっといてくれるんですか、)
(なんて、訊けるわけがないでしょう?)

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