PandoraHearts

□気づくまでの距離
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 あの目が苦手だ。
 それは失われている片方ゆえか、見ればそのままどこかへ引き込まれてしまいそうな力を持っている。ひどく底が知れない、貪欲で、陰鬱、それでいてどこか危うい、ああ、なんと言うべきか、ともかく、なにか強い力を持つあの紅い隻眼が言いようもなく恐ろしいのだ。魔性の目、とでも表現できようか。あの目でじっと見つめられると、凍ったような冷たい手に心臓を撫でられているような錯覚に陥る。だのにその視線はどうしたって外しようがないのだ、ああ、いいや、外したくないと言うほうが正しいだろう。彼の狭い視界を、自分だけが占めているのだと思うと、心の底をくすぐられているような気になる。そうして口づけなどされたときには、もうどうしようもなく抱きしめたくなるのだが、そういうときに限って、彼はするりとかわし、ひょうひょうと逃げ出していく。まるで気ままな、しつけのなっていない猫のようなそれに、歯噛みしながらも、そんな態度に安堵している自分がいるのも確かではあるのだ。もともと、ひとに束縛されるのはあまりすきではないし、束縛する性格でもない。
 そのはずだった。
 それが少し変わったのは、きっと、見てしまったからだと思う。ああ、ふと、見てしまったのだ。彼がギルバート様に抱きついているさまを、偶然、見かけてしまった。いや、見かけた、と言うよりは、やはり、見た、と言うほうが正確なのかもしれない。なんせ、彼はわたしがいることを知っていて、その上で抱きついていたのだから。周囲には自分以外にも多数の人間がいて、まあ、そのほうが、そういう感情が希薄だということがよくわかってよいのだが、やはり、いい気分はしないものだ。だからと言って、その場で引き剥がすことなどできるはずもない、そのときこそさりげなく目を逸らし、できるだけその光景を見ないようにしていたが、悶々とした苛立ちは溜まる一方で、消化される気配なぞこれっぽっちもなかった。それゆえか、無防備に佇む彼の背中を見つけた今、驚かせてやろうと思いついたのは。
 そうは言っても、彼を驚愕させるのができたことなど一度もなかった。子どもの頃、幾度もシャロン様の無邪気さに巻き込まれ、共にいたずらをして驚かせようとしていたのだが、いつも彼は一枚上手で、逆にこちらが驚かされる羽目になるのがしばしばであった。それが数回繰り返され、シャロン様が悔し泣きをされるようになると、さすがの彼も驚く素振りをするようになった(それはそれで、いたって巧妙なものであったのだが)。付き合わされてしていたこととはいえ、わたしも幼心にどこか悔しさを感じ、個人的にも様々ないたずらを仕掛けたこともあったが、それでも彼は一度も引っ掛からなかったのだ。
 わたしの部屋で熱心に書類を読んでいる彼は、部屋の主が帰ってきたことにも気づいていないように思えた。静かに扉を閉め、足音を立てないようにそっと、彼の左側から背後に忍び寄る。
 細い肩だ。
 彼を抱きしめる度に思う。それは今回も例外ではなかった。少しでも力をこめれば抱きつぶしてしまいそうなその身体は、それでもしなやかな筋肉でうっすらとおおわれているのをわたしは知っている。乱雑に切り揃えられた白髪に頬を寄せると、彼は小さく溜め息をついて書類を放り出した。
「どうかしましたか、レイムさん」
「…気づいていたのか」
 そう言ってから、今さらながら自分の発想に後悔した。あれだけ戦闘能力に長けているのだ。驚くわけが、気づかないわけがないではないか。
「わたしの死角から近づいたのは、きみらしいけれど」
 やっぱりおつむが違うねえ、と笑って肩に頭を預けてくる。そこまで見透かしていたのなら、なぜ気づかないふりをしていたんだ。してやられたような気分になり、わたしは憮然として彼のうなじに顔をうずめた。これでは、仕返しにもなりやしない。
「レイムさん?」
 不思議そうに彼が呼ぶ。いたって邪気のないその声に、胸の奥がちりちりと焼け焦げていくような感覚に襲われた。昼間の、他人にくっついている彼の姿が頭から離れない。
「…なにか、ありましたか?」
 優しい口調にありのままを話しそうになって、わたしはきつく奥歯を噛みしめた。こんなこと、嫉妬にかられているだなんてこと、本人に言えるはずがない。自分でも、あまり認めたくないのだから。やり場のない不快感を振り払おうと、抱きしめる腕の力を強める。彼がかすかに息をつめた。
「ちょっと、レイムさんっ…」
「わたしに、だって」
 わざと小さく囁いてやれば、息苦しそうに身じろぎしていた彼はぴたりと動きを止めた。苦々しい声が、口をついて出てくる言葉を形作る。
「…わたしにも、縛りたくなるときくらいある」
 ほんの少しだけ、ぴくりと彼の肩が上下した。なにか、まずいことでも言ったか。そう思い顔を上げると、髪に隠れかかった彼の耳が目にとまる。
 ふわりと、赤い。
「ザークシーズ…?」
 まさか、と顔を覗きこもうとして、すっとそれを逸らされた。
「…なんですか」
 わかりづらいくらいにわずかばかり、普段よりもうわずったその声に、言いようのないよろこびがこみあげてくるのを感じた。それと同時に、血が差しのぼったその顔を、揺れるその目を無性に見たくなった。そう、ついに、動揺させることができたのだ。あの彼を。
「離してくださいっ」
「断る」
 もがく彼を逃すまいと抱き寄せる。もう、と腹立ちまぎれに息をついた彼は、やがてあきらめたように背中を預けてきた。ふんと鼻を鳴らして、皮肉げに呟く。
「…外見こそそれだけ成長していても、中身はまだまだガキですねえ」
「こっちの台詞だ、それは」
「わたしは身も心も永遠に少年ですから」
「…よく言うな」
 あきれてため息をつくと、彼はふふ、と笑って身体ごとこちらに向いた。つと上げられる目から、どうしてかいつもの恐怖はまったく感じられない。ああ、まったく、というわけでもないが、とにかく普段からはとうてい比べようもないくらい、その鋭さが和らいでいたのだ。自分を映し込んだ、どこかあたたかな光を宿したその眼が、ふっと愉しそうに細められる。それがぐうっと伸びあがったかと思うと、突然唇に柔らかいものが押しつけられた。
「………ザクスっ!」
「なーに驚いてるんだかー」
「唐突すぎるだろう!」
「予告してするものでもないですよねえ」
 ちゅ、とまた口づけられた。いたずらに微笑む彼に、いつまでもいきり立っているのもばかばかしくなる。まったく、とこぼしつつその白い頬を手で包むと、彼にしては珍しく従順に目を閉じた。
「…逃げないのか」
 唇を離してそう言えば、しばしきょとんとしていた彼はくすくすと笑い出した。
「なに言ってるんですか、今さら」
「………?」
「…縛りたいんでしょう?」
 かあっと一気に顔に熱が集まった。そう言ったのが事実なだけにろくに反論もできず、わたしは必死に言葉を探しながら、ただ口をぱくぱくさせるしかなかった。誘うように笑む彼が、妖艶に動く指でわたしの頬を撫で、唇をなぞっていく。そうして、口づけられる、と思った途端、腕の中の質量がこつぜんと消えた。
「…きさまっ!」
 逃げないんじゃあなかったのか、とばかりに怒鳴ると、いつのまにか部屋の扉まで移動していた彼は、上がった口角を隠すかのようにだぼついた袖を口元に当てた。
「逃げないなんて、ひとことも言ってませんから」
「な…!」
「くやしかったら、捕まえてごーらんー」
 ひらりと上着をひるがえし、廊下へと消える。普段ならここで、決して追わないのだ。きっと、彼はほんとうに離れたくて逃げているのだと、いつもそう思っていた。
(…そうじゃあ、なかったのか?)
 縛りたいと、わたしが言ったときの彼の反応。それを思い出して、自然とわたしの足が一歩前に踏み出していた。では、すべて、わたしの思い違いであったというのか。あの目から感じる拒絶に似た恐怖も、なにもかも。重い足を引きずって扉の前に立ち、ノブを掴もうとして、わたしは思い違いをしていたわけに、ふと気づいた。
 こわかったのだ。
 臆病な自分がいたのだ、彼に対して。自由奔放を形にしたような彼を、なにかしら大きな目的を持つ彼を縛ってしまうことが、そうしてうとましく思われることがこわかったのだ。束縛などされたくはないのだろう、そんな彼に対する先入観ゆえに。
(あいつは、ずっと…)
 おそれながら自分に接するわたしを、どんな目で見ていたのだろう。臆病なやつだと笑っていた? ひとをあいすることもできない、こわがりなやつだと、笑っていたのだろうか?
 それとも。
(…わたしが気づくまで、待っていてくれていたのか?)
 胸を突かれるような思いに、わたしは今度こそノブを掴むと勢い良く扉を開けた。そして彼を探しに行こうとして、しかし、それはかなわなかった。
 そこに、いたのだ。
「…やっと」
 部屋の前に立っていた彼は、にっこりとやさしく、微笑んだ。

「やっと、追いかけてくれましたね」


気づくまでの距離
(すきだという感情が、きみだけにあるわけじゃあない)

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