ケロロ軍曹

□いびつなあい
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 母親の姿などひとつも覚えてはいない。思い出そうとも思わない。いくら足掻いても思い出せないのだから。できもしないのがわかっているのにするなどという無駄なことはしない主義だ。ああ、歪んでいる、と? なんとでも言えばいい、だがその歪みを作ったのは誰なのか、その平々凡々な頭でじっくりと考えてみろ。おれの頭は正論でしか組み立てられていない。だから答えなど教えない、自覚さえあれば誰でもわかる、教える必要など一切ないのだ。
 恐らくひどく冷たいであろう銃口を彼に、この小隊の先導者の首筋にひたりとつける。滅多に持たないそれは手にずしりと確かな重みを与え、遠い昔の訓練を思い起こさせた。幼訓練所ではないその場所での訓練はひとと戦うためのものではなかった。この、ひとよりも少し優秀なだけの脳みそを護るためだけの訓練だったのだ。おれのためではない、頭脳のためだけの護身術はこれまで一度も使われたことはなかった。使わなければいけない局面に導いてしまうほど、おれの頭は馬鹿ではない。
 セーフティデバイスを外した銃の引き金に指を添え、軽く力を込めていく。その気配も感じ取っているくせに、この小さな宇宙艦の操舵席に座る男は動こうとしない。軍曹などという階級、そして小隊の命を背負わされたこの男は動こうとしない。この、目の見張るほど鮮やかな緑の男は、まったく動こうとしない、自分の命が消えてしまうだろう今この瞬間から、逃げようともしないのだ。死への恐れを抱いていないのか。いや、そうでなければ、よっぽどのしにたがりでしかないではないか。
 銃が鉛のように重い。物心すらついていなかった自分から、なにも知らず安穏と育ち、暮らしていける筈だった自分から母親を奪った、子どもでいれた筈の時間を奪った、そうしておれを歪ませた、軍というあらゆるひとを、ころしたかった。ああ、わかっている、たかがおれひとりだけの力でそんなことができるはずがない。だから、地球侵略の任務を与えられたその瞬間、おれは決めたのだ。小隊を壊滅させ、地球に亡命しようと。あの生命体の多い星のことだ、おれひとり隠れたって見つかりはしない。それに生命体が大量に存在するということは簡単に侵略などできないということだ、だからおおっぴらにケロン軍がおれを捜索することはできないのだ。とにかく、おれはケロン星から離れたかった、力と領土に飢えた星から、狂ったひとびとから、逃げたかったのだ。
 不意に、男が立ち上がった。ずれた照準を直そうと銃を持ち上げる、それだけで腕の筋肉はぴんとはりつめて悲鳴を上げた。感覚の失われた指先はきっと冷たく、血が巡っていないに違いない。かたかたと揺れ続ける銃身に、おれは目を閉じて空いた片手を滑らせた。力がこもりすぎて強ばった両手、両腕、全身は崩れそうで崩れない緊張を保っている。銃自体が重いわけではない。銃の存在が、今まさに命を奪う道具とすり変わるそれが、おれにとっては重すぎるのだ。今になってひとをころす訓練を受けなかったことを悔やんだ。ああ、間接的にはなんにんもころしてはいるさ、もしかしたら、目の前の、軍曹を名乗るこの男よりもころしているかもしれない。だがこうやって、自分自身で引き金を引いて返り血を浴びるということは一度も経験したことがないのだ。己の手を汚して、ひとをころしたことがないのだ、無理矢理戦いの世界に引き込まれたとはいえ、仮にも軍人であるくせに! 特別と扱われた所以に、ひとをころすことの重みをおれは今ここで味わう羽目になるのだ! それは許されない、美しくひとつの皺もない真白な紙に、ぽとりと水っぽい墨を垂らしたようなも
のだ、その紙はただ美しいと見せかけているだけで、ほんとうはいくつもの汚い消し跡があるのだ、だがそれをも、滲む墨はただただ塗りつぶしていくのだ! いいか、おれは、おれは、今、この男を撃って、逃げるのだ、おれを、おれの世界をめちゃめちゃに歪めた、こいつらから逃げおおせるのだ!
 目を開いたおれはぐっと指に力を込めた。引き金が動く、信じられないほど重い、しかし軽々しいそれは、いとも簡単に根元まで引き寄せられた。
 鋭い発砲音、思わず瞑った目、そして撃った反動によろめく身体。手から離れた銃が、床に落ちる音は、耳に、届かなかった。
「…持ち慣れないものを、わざわざ、持つんじゃあないであります」
 おれは顔を上げられなかった。男の足元を、じっと見つめるしかできなかった。
 ころせなかった。おれは、この男をころせなかったのだ。ぼんやりと霞む思考のなかで、その事実だけが妙にはっきりとしていた。
「ほら」
 銃を差し出される。通常ならば信じられないその行為に、おれは驚きではなく、突如として波のように押し寄せた憎しみと怒りで顔を上げた。何故ころさない! まだ地球に出発してもいない、任務も始まってはいないのだ、味方に牙を剥く者を、おれのような不安材料を消しても、また違う誰かを採用すればいいだけのはなしではないか! それを、何故ころさない! 何故、武器を返すのだ! 馬鹿にしているのか!
「案外、優しい奴なんでありますな」
 なにを、言っているんだ、この男は! どこまでもどこまでもピントのずれたことばに、おれは堪えられなかった。差し出されたままだった銃を叩き落とし、隙のできた男を金属の床へ押し倒して、首を掴み、血の流れる、銃弾がかすった傷に爪を立ててそれを広げるように下へ引っ掻く。それでも男は、ただ痛そうに顔をしかめただけで、なにもしなかった。
「…なんなんだよ」
 声が、いやに震える声が舌を動かして溶けていく。このままこの手に力を込めても、この男は動かない気がした。
「どうして、逃げないんだ」
 どうして、どうして、逃げてくれないんだ、あんたが逃げてくれるならば、このままだれもころさずに、この艦で逃げられるのに。
「ころしたくないんでありましょう?」
 あたりまえだ、ひとをころしてなんになる、ひとをころしてなにが残る! ただ残るのは喪失感や憎しみでしかない、負の感情でしかないだろう! ああそうさ、おれは、ころされたんだ! 軍は、子どもであったおれをころした、おれの礎となる時を奪い去ったのだ! 礎のない、土台のない物がそのまま積み上がっていけるわけがないだろう、どこかで崩れそうになった、その瞬間に心は踏みとどまろうと無理矢理バランスを取るのだ、その時、その瞬間、歪みが生じるのだ! ひとをころしても同じだ、そのひとの傍にいたひとびとは、復讐という名のもとに歪んでいくのだ、だから、おれはころしたくないのだ、これ以上、おれと同じ者をつくりたくないのだ!
「でも、ころしたいんでありましょう?」
 ぞく、ぞく、とそのことばに血がざわつく。軍のあらゆる人間をころしたいという欲求は歪みからできた矛盾であり、復讐である、ああ、ひとをころしたくないと叫ぶのは歪みから逃れた小さな自分だ、だがその小さな自分に救われて今のおれがいる、歪みに呑まれ、いつ消えてしまってもおかしくはない良心に縋っておれは生きているのだ、それが消えてしまえば、おれはひとをころしてしまう、きっと、復讐にとりつかれてしまうのだ! その前に逃げるのだ、おれは、逃げるつもりだったのだ! それを、この男は!
 だったら。と、男がわらった。
「我輩をころすでありますよ」
 男の首にかけた両手が、痙攣を起こしたかのように強く震えた。それに男は目を細める。やさしげに。いとしげに。
「我輩をころせば、気が済むんでありましょう?」
 だれが、そんなことを言った。だれが、おまえだけでいいと言った。おまえだけじゃあ足りないんだ、おまえの命だけでは足りない、おれは、軍を、軍のすべてを消してしまいたいのだ、ほんとうは! だがそんなことができるわけがないではないか、そんなことが、なにかを失う痛みを知っている今になってできるわけがないじゃあないか! そうありったけの声を振り絞ろうと目を上げた、そして、その声は、出せなかった。
 男は微笑んでいた。ひどくやるせなさそうな、ふにゃりとした笑みをたたえた口がそっと開く。
「でも、我輩だけでありますよ」
 ころすのは、とまるで他人ごとのように語る声が耳に滑り込んでくる。しかしその目はただただ静かであった。なにも読めない真黒のそれは、それでいてひたすらになにかに怯えているように見えた。
 ──失いたくない、のか。
 その言葉は初めてろくにものを考えられなくなった頭に、初めて、感覚だけで浮かび上がったものだった。瞬間、おれは男の首から手を離していた。離して、その頬を打とうと振り上げていた。
 男は黙っている。黙っておれを見つめている。その視線におれは奥歯を噛みしめて男を睨んだ。おれは、こんなやつをころそうとしたのか。誰よりも、誰かの命が消えることをただ恐れる、誰かをまもるためなら自分の命さえも犠牲にしようとする、こんなやつを。その考え方はひととしては一見筋が通っているように思える、だが、いきものとしての生き方からすれば信じられないほど歪んでいるのだ。だってそうだろう、自ら進んで捕食者に食べられにいくいきものなどいないだろう。その捕食者が飢え死にしてしまうからといって、己の肉を差し出す者などいる筈がない、だが目の前にいるこの男は、まるきりそれであるのだ。自分よりも他人、そんないびつな、ああそうだ、おれよりも歪んだ思考を持つ、誰よりも小心で、阿呆で、馬鹿なこの男は、そんな男だというのに、隊長だというのだ。
 無性に腹が立った。血の逆流するような怒りが身体を震わせた。さっきは感じなかった悔しさが溢れ出し、振り上げた手を男の頬に落とそうと、落とそうとして、その手は拳に変わり自らの膝に叩きつけられた。この男が隊長であることが憎かった。自分がころそうとした“隊長”が、この男であることが。この男でなければ、“隊長”がこの男でなければ、おれはためらいもなく首にかけていた手に力をこめることができただろう、だが、この男はそれを許さなかった、おれにころすことを許して、しかしおれがそれをできないことを知っていたのだ。
 ひきょうだ。そう思った。目の前の男はおれに乗られたまま、ただただへにゃりと笑っている。その頬に水滴が落ち、すうっと下へ滑っていく。どうやら、上から降ってきたらしい。
「ああ、雨漏りか」
 この星では有り得ないことを呟いて、おれは目尻から顎を伝う濡れた感覚に、知らないふりをすることにした。

いびつなあい

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