記憶を失いし書の主

□第六話『一時の平穏』
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 夢を、見た。

 暗闇の中で、誰かが独り立ち尽くしながら、静かに涙を流している。

 『その人』は、どうして泣いているのだろうか?

 見ていると自分も悲しくなって、『その人』に近づこうとした。

 だが、何故か距離は縮まない。

 それなら声を掛けようと思ったが、何を口にしても『その人』は気づかない。

 たった独りで、何処かを見ながら泣いている。

 ふと、『その人』が見ている方向に目を向ける。

 そこには『その人』と瓜二つの人がいて、『その人』と同じように独りで立ち尽くしていた。

 『あの人』は『その人』と違って、泣いてはいなかった。

 でも、何か少しでもあれば崩れ落ちてしまいそうな、そんな危うさを内包していた。

(どうして『その人』は泣いているんだろう。どうして『あの人』は泣かないんだろう。あれでは、まるで『その人』が『あの人』の代わりに泣いているみたいだ)


†††††


 ぱちり、と目を開けた。

 外ではまだ早い時間だからか蝉は鳴いておらず、気温も涼しいと思うくらいだった。

 ベッドから体を起こしたカイトは、暫くぼーっとしていたが、一度伸びをして体をほぐす。

「あれは夢……だよな?」

 カイトは不可思議な夢を思い出す。

 何故だか容姿も性別も認識出来ず、にも関わらず『その人』と『あの人』は瓜二つだと判るなんて、不可思議以外に形容する言葉はない。

「まあ、いいか。早く下に行って準備をしよう」

 カイトはぱっと思考を切り換えて着替え始めるのだった。


†††††


「うおぉ! 見てはやて、海だよ海!!」

「おお、ほんまや。平日だからあんま人もおらへんね」

「晴天じゃなくて適度に雲もかかってるし、まさに絶好の海水浴びよりですね、はやてちゃん」

 カイトたち八神家一行は、海水浴場にやってきていた。

 以前に夏祭りを楽しんだからか、はやては最近は色々な場所に行くことに積極的になった。

 その変化を一番嬉しがったのはカイトだ。面には出さないが、初めて行ったり久しぶりに来たりした場所ではやてが笑っているのを、カイトが後ろで見ながら目を細めている場面をシグナムやザフィーラは何度も目撃している。

 そして、夏と言えば海、海と言えば海水浴、と連想した結果、人がまだ少ないであろう平日に海水浴に行くことが決定されたのだ。

「さて、じゃまずは着替えに行くか。シグナムははやてを頼む。俺は車椅子を海の家に預けてくるから」

 カイトがてきぱきと指示をし、シグナムはそれに従いはやてを抱き抱えた。

 ちなみに、重い荷物はザフィーラが持っており、お金などの小物が入ったバッグはシャマルとカイトが持っている。

 カイトとザフィーラは女性組と別れて、先に海の家に向かい、事前に連絡してあった八神だと名乗る。

 海の家を経営しているのは、柔和な笑顔を浮かべる五十代くらいのご夫婦で、喜んで車椅子を預かってもらえた。

 それから更衣室に向かい、手間もかからず着替えてロッカーにいらない物だけいれて鍵をかける。

 外に出ると、流石に布に覆われていない肌がじりじりと焼かれる感覚を覚えた。

 カイトは一応肌に日焼け止めは塗ったのだが、それでも十分とは言えそうにない照りつけだった。

「カイト、きっと我らの方が早いだろうが、先に待っておくに越したことはない」

「そうだな、女子更衣室の近くで待っているか」

 二人で女性陣を待つ。

 もはやこれもお決まりのパターンだ。

 女性というのはとかく準備に時間がかかるものだから、男はひたすら待つ。それが男の甲斐性だ、と言ったのは誰だったか。

 そんな埒のないことを考えていれば時間は過ぎていくわけで。

「あ、カイ君!」

「ん?」

 はやての声が聞こえて首を横に向ければ、着替え終わった――彼女たちが。

「っ!」

 カイトは目を逸らした。

 ――ヤバい。

「なんで、目背けてんだ? カイトのやつ」

「ふふふっ。思春期真っ盛りの男の子にはイロイロあるのよ、ヴィータちゃん」

 そんな会話が聞こえても無視。

「そ、そんなに似合ってなかったか? カイト」

 ――出来ずに答えるが。

「え、いやそんなことはない。ああ、シャマルが上手に料理を作れるくらい大丈夫だ」

 どうみても大丈夫ではなかった。

 カイトの心臓はフル稼働しっぱなしで顔と耳は真っ赤。頭は変な方に行きそうな思考を何とか食い止めることで手一杯という状態だ。
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