「ねぇねぇ、先生」
「はい?」
首だけで振り返ったアナタは目を鍋に向けたまま。
それでも頬が窓から入る夕日のオレンジ色で酷く淡く。
それを見たら、何だか泣きたくなる。
「─────」
「………」
「はい? なんですか?」
「………」
「何です?」
テーブルに肘を付いて、顎を乗っけて。
訝しげな口調の唇を眺める。
(……何だっけ)
言おうとしてたこと、忘れた。年かな。
…いや、違う。
ただ呼んでみただけ。
用なんてない。
「すきー」
「…そーですか」
ふぃ、っと頭をコンロに向けなおして、お玉からひとくち味見。
首を横に捻って、ゴソゴソと手元で何かしている。
高い位置で束ねた黒髪も、夕日の橙色に浸食されて、透明に似た、何か綺麗なもののようだった。
本当は普通に硬くて痛んだ髪なのに。
「ねぇねぇ、先生」
「……はい?」
今度は振り向かない。
怒ってるわけじゃなくて、ただこんな風に"甘い"感じの空気が苦手なだけ。
そんなことは知ってる。
「だいすきー」
「はいはい」
何か違うなぁ、なんてぼんやり。
すきすきすき、俺もだいすきダーリン。
なんてあの後ろ姿が言ったら卒倒ものだけど。
「先生ぇ」
「しつこい!」
「あぁー…」
一刀両断。ガクリ。
大人しく座ってるのも飽きてきた。
座りっぱなしで痔になったらどうしよう。そしたら先生がいつも使ってる薬貰おうかな?第一あれ、痔の薬か知らないけど。でも男に掘られた後に効くくらいだから、痔くらい一発で治るかも。
「変なこと考えてますね?」
「あ」
気付かないうちに、彼は両手でお椀をもって横に立っていた。
イスに体育座りの自分は、微かに上目遣い。
「出来ましたから、運んでください」
「はーい」
体躯を見れば、自分の方がよっぽど突っ込まれてそう。
前にある尻を見ながら思う。
「なに見てんですか」
「あは…先生すき」
アホですか、って小突かれて。
これだ、ってわかった。
「はは」
「…Mですか」
「そうかも」
嫌そうな顔。
でも目があまりに優しくて、甘い。
(触られるのが、好きなんです)
普段ならそんな風に、触られたいなんて思わないし、あまり触れたくもない。
けれど、今はしゃもじを握ってるこの手が、堪らなく愛おしかった。
「変態も行き過ぎると案外スッキリしますね」
「誉めてます?」
「いいえいいえ。気持ち悪い、って言ったんですよ」
ふふ、って。
無性に口付けたくなったけど、茶碗を持った左手を無理に引いて、白米が散らばったりしたら。
確実にぶん殴られるから、我慢した。
「ねぇねぇ、先生」
「はい?」
「愛してる」
「…そーですか」
「先生は?」
そういう質問止めてくださいよ、苦手なんです。
なんて呟いて、少しの逡巡と小さな間のあとに。
深くため息をついて、視線を焼き魚に移して。
下を向いたままぽつり、一言。
「─────」
ああ、泣きたいくらい幸せ。
「なにニヤニヤしてるんですか、」
「なんか泣きたくなるね」
「笑顔と泣き顔の区別つきにくいですよ」
「…そう?」
口を意味深に結んで、軽く頷く。
柔らかい空気が満ちた。
「ええ、かな…、ん」
身を乗り出して、唇を重ねる。
言葉は遮られ、開いた口、舌に囁かれた。
「…いきなりなんですか」
「なんか幸せだなぁ、って」
オレンジ色の夕日は消えて、静かな紺色を背景に。
「確かに…、そうですね」
そう言って、恋人が笑った。
end.