風姿華伝書

□華伝書137
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―――同じ頃。


(……皆と、飲みに行けば

よかった……………)


五條の妾宅では、一人


縁側へ腰掛け、杯を傾ける

沖田先生の姿があった。


実は………


『久しぶりに、


飲みに行こうぜ、総司っ』

と、近頃すっかり元気の


ない先生を見兼ねたのか


隊務を終えた永倉さんが


若い隊士達を連れ、誘いを

かけたが


『いえ…。今宵はちょっと………』


と、先生は夕食を食べ


終わるや、早々に


屯所を後にしていたのである。






《しつやしつしつの


をたまきくり返し 


昔を今になすよしもかな》

「………………っ」


《静や静、静…………と


幾度も呼んでくださった


あの頃に、戻りたいものだ

なぁ、いや、戻れまい…》





里からみつへ渡してほしい

と頼まれていた《吾妻鏡》

を開いていた先生の視線が

ふと、ある和歌に止まった。


ジャリ……と、庭下駄が


中庭の砂を、はむ。


その和歌は、かつて、兄


源頼朝と手を組み、武士の

世を造ろうと奔走した


判官・九郎義経(源義経)の

愛妾………《静》が、後に

敵となった頼朝の前で


義経を慕い、歌ったものである。


捕われの身で


ありながら敵将を歌にする

とは何事かっ!と、恐らく

周囲の者達は憤慨したに違いない。


しかし、静はひるむこと


なく、歌いあげた。


静や静、静………と何度も

呼んでくださった、義経様

が恋しや……恋しい、と。

フゥッと、小さく息を吐いて


先生は庭の片隅へ瞳を向ける。


そこでは、所々の葉が枯れ

萎れた朝顔が、閉じた華を

肌寒い風に揺らしていた。

先生は、左手で猪口を掴む

と、一気に酒を喉へ流し込んだ。


ザワッと、向かいの長屋から


楽しげな喧騒が伝わってくる。


すると、その喧騒に触発


されたのか、どこからとも

なく、鈴虫や松虫達の合唱

が辺り一帯を包みこんでいった。






  リーン、リーン…


「…………………」






先生は、スッと両手を合わせた。


(……まさか。こんなに…)

そして、その懐から


コウガイと御守袋を取出し





「……人の無事を、願い


続けるしか出来ないことが

こんなに、物悲しいとは…

…思ってもみなかったな」

晴天の夜空を見上げた。


(………。それを…………)










(……ずっと、やり続けて

くれていたんだなぁ……)

『……どうか。御無事で』






――…みつさんは……――
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