風姿華伝書

□華伝書130
1ページ/7ページ

一同刻。


   ケホッ・・


(・・あ、螢一・・・・・)

今宵も、あちらこちらから

絶え間ない男女の愉しげな

喧騒が響く京・島原・・。

その一角、松屋という店の

物置部屋から小庭へと続く

縁側に、遊女・椿が一人、

座っていた。


いや・・座っていたのでは

なく、すぐそばの柱に


躰ごと凭れかかっていたと

書いた方が正しいといえよう。


何故なら彼女一・・・・・

(・・・躰が、怠い・・・)

当時、花流病・カサとも


呼ばれた梅毒(ばいどく)に

躰を蝕まれていたのである。


命を失っても可笑しくない

恐ろしい病、であった。


昨夜から続いている高熱も

恐らく、その影響なのであろう。


フッと、月灯りで蒼白く


染まった柳の枝から、螢が

一匹、すっかり痩せた指先

へと、近寄ってきた。


(一・・・螢・・・・・・)

椿は、己の指先で遊ぶ螢へ

ホゥッと虚ろな瞳を向け


ながら、はだけた夜着を


気にもせず、見入る。


熱のせいか、頭には、螢


という一文字しか、


浮かんでいなかった。


何時の間にか、開放たれた

物置部屋の蝋燭は消え・・

遊女達でさえ、滅多に


近寄らない部屋の周りは


社交場とは思えない程の


静寂と月灯りに満ちていた。


ザワッと、湿気に富んだ


生暖かな風が、解かれた


椿の長い黒髪を左右に揺さ振る。


「・・・っ、・・・」


   ・・・ケホッ


何か一・・・言の葉を紡ぎ

かけた唇から、弱々しく


漏れたのは、咳・・・。


椿は、少し乱暴に袖口で


唇を拭うと、その瞳を


東の夜空へ流していった。

本当なら、立ち上がって


今すぐあの、大きな懐に


飛び込みたい一・・・・。

この東の空の、先・・・・

「っ、・・・平助・・さ」

この世で一番、愛した


・・・あの人の懐へ。






一・・・と


  ダッダッダッ・・


その、刹那。


「一・・・・・?」


突然、響いた荒い足音に


椿は、少し振り返った。


今日は、美月が診察へ


やってくる日ではない。


それ故に、もしや、己の


身の回りの世話をして


くれている末摘が、様子を

見に来てくれたのかと思ったのである。


病に侵された椿を、


見舞いにくる者はいないに

等しく、日に数度、姉役


であった末摘が訪ねてきて

くれることだけが、


ここ最近、唯一の椿の楽しみであった。


以前は大好きだった食さえ

もう、椿の身には、苦痛と

なりつつあったのである。

実は今宵も、末摘が持って

きてくれた夕食にとうとう

箸をつけられなかった。


開かれた障子戸の先・・・

薄闇の物置部屋に、冷めた

膳が一つ、黒光りしている。


(・・膳を取りに、


末摘さんが・・・)


・・来たのだ、と思った。





しかし一・・・・・・


「っ、椿っ!!!!!」


「あ・・・っ」


その予想は、大きく


曲がったのである。


先程まで、椿の細指で


遊んでいた螢が、逃げる


ように夜空へと飛び去っていった。


・・・現れたのは


「っ、お母はん・・・・」

「椿っ!あんた、今宵も


勤めを休むて、どないいうことっ!?」


と、荒々しく声を上げながら


鬼の様な形相を見せる、


この遊女屋を取り仕切る


女将、マツ。


つい、二ヶ月程前に、隠居

した先代に代わり、新たに

松屋を継いだ、新女将である。


・・・とはいえ、穏やか


だった先代とは、異なり


店の利益を上げることだけ

に奔走するマツ女将は、


常に毛並みの逆立った様な

気性の荒い人物であった。

今も、病の身故に、幾度も

店の勤めを休んだ、椿へ


怒りを剥き出しにしつつ


「すっ、すんまへんっ!


どないしても今日は、躰が

怠ぅて動けへんかっ・・」

「っ、この一・・・っ!」

  バシィッ!!!


「っ、役たたずっ!!!」

と、必死に頭を下げて謝る

椿の身を、小庭へと蹴り倒した。


ドタタッ!!と、雷の様な

物凄い音と共に、椿の


小さな身は地面へと転がっていった。


「っ、一・・・・・・っ」

蹲る椿は、振り乱れた黒髪

の隙間から、じっと、鋭い

視線を、女将へ送る。


・・・すると、女将は


その視線に更に、業を


煮やしたのか、フンッと


鼻息荒く


「っ、何や、その眼はっ。

本当のことやろっ!・・・

もういい。あんたみたいな

疫病神、さっさと、


どこなりと、往ね!!!」

と、言い放った。


「っ、そんな!待ってくださいっ。


江戸からきた私には、


何処にも行く場所なんて」

「そんなん、うちは


知ったことやない。


働かへんなら、年季(借金)

も、そのまま・・・・・」

「お願いしますっ!


どうかここに置いてくださいっ。


勤めは無理でも、下女でも

下働きでも何でもしまっさかいっ」


この場を追い出されれば、

椿に残された道は・・・。

故に、必死に女将に食い下がった。


「・・そんなら、そうすればえぇ。


但し、この部屋からはもう

出てってや。新しく入った

子達の部屋にするんやから」


「っ、えっ、では私はどこに・・・」


女将は、人差し指で、椿の

右側を差し示し、フッと


笑窪を浮かべた。


「何言ってはんの。そこに

建ってるやない、立派な


部屋(納屋)・・・・・」


「っ、一・・・・・・」


その微笑みは、椿にとって

今まで生きてきた中で一番

冷めきったもの、だった。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ