風姿華伝書

□華伝書137
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「…………………」


(………頭が……………)


………痛い。


みつは、ゆっくりと瞳を開いた。


頭が………酷く、疼く。


酒を一程度以上に飲み過ぎ

ると、吐き気や頭痛に


襲われると、よく耳には


していたが……………


「……っ。……痛………」

ここまでとは思ってもみなかった。


薄らと、開かれた視界に


穏やかな月光の灯りが


流れこんでいく…………。

開け放たれているのだろう

格子戸から闇夜に浮かんだ

月が、ボゥッと動けずに


いた、みつの細身を


照らしだしていた。


………と、そこへ


「……漸く、起きたか…」

「っ、………っ!?」


急に、低い声色が、みつの

両耳を伝った。


驚いたみつは、先程の


頭痛も何のその、ガバッと

勢いにまかせ上半身を起こす。


見ると、辺りはまだ薄暗く

相変らず、灯台の灯りさえ

ない部屋の端に…………


「っ、あ……………」


開け放たれた格子戸へ身を

凭れさせ、西の山際へ沈み

行く月を眺める、結羅の姿があった。


あ……、と一気に言葉を失う、みつ。


(……まさか、私………っ)

そして、寝乱れた夜着を


慌てて直しつつ、


――…ごめんなさい…――

(……………っ)


昨夜、己に起きた状況を


思い出していた。


酒に混ぜた薬に酔い、


朦朧とする意識の中、


逃げに逃げて………………

(………でも…………っ!)

………結局………。


「っ、………………」


ふと、みつの視界に浮かぶ

月が二、三重に振れた。


と同時に、暖かな雫が


無意識に頬を下っていく。





「………。何故、泣く」


僅かに、嗚咽を漏らしつつ

声を潜めて涙を流す、


みつへ振り返った結羅が問う。


無論。


みつが涙を見せる理由は


最愛の人を裏切って


しまったという思いからである。


しかし…………


「……これは。《嬉し涙》どす」


今、この状況において


真実を述べることは、


どうしても、できなかった。


故に、みつは、笑った。


「結羅はんに《添えた》


ことが、嬉して…………」

《哀し涙》に濡れる顔を


笑顔に変え、己の惨めさに

対する怒りに肩を震わせながら。







…………と、


「……添っちゃいない…」

「………ぇ……」


突如、部屋を包み込んだ


まさかの言葉に、みつは


身を乗り出し、再び、


えっ!?と大きく問い返した。


「ほ、本当ですかっ?


でも、どうして………っ」

思わず、京弁を使うことも

忘れてしまう程であった。

パァッと、一瞬で表情を


変えたみつの様子に、


「……意識のない女に手を

出す程、落ちてねぇ……」

と返答した結羅の、視線が

痛々しい程に突きささる。

「………………っ!」


(……それじゃ、私は……)

しかし、みつにとって


みれば、そんな視線など


何のその。


己がまだ、先生を裏切って

はいないことに安心しきり

結羅が目の前にいるにも


関わらず、大きく肩を撫で下ろした。


そんな、みつの心境を


知ってか知らずか、丁度、

そよいだ夜風に誘われる


ように、どこからともなく

鈴虫が、見事な


アンサンブルを奏でていく。






………と、その刹那。


「…《今度は》寝るなよ」

    ……スッ


少し、声色を荒げた結羅が

再び、みつの細い手首を引き寄せた。
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