風姿華伝書

□華伝書137
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―――同・子刻。


みつの涙と沖田先生の


どうにもならぬ感情が


行き交った、その夜の


12時過ぎ………。


(……おみつさん。うまく

逃げ切れたんやろか……)

深夜からの、離れ座敷探索

へ向けて仮眠を取っていた

梅野は一人、廁(トイレ)


から続く廊下を、部屋へと

戻っていた。


ギシッと、年季の入った


床板の音と共に、ギャハハ

と、聞こえてきたのは


楽しげな宴の声…………。

フゥッと、梅野の足が


止まり、すぐ横の襖へ流れる。


そこからは、チラリチラリ

と襖の隙間から、行灯や


灯台の灯りが漏れていた。

(……酔狂な………………)

と、再び肩を落とす梅野の

背を、三味線の音が逆撫でる。


    ギシッ……


梅野は足早に、再び歩き始めた。






………と、そこへ


「っ、……………」タンッ

先の方から、急に現れた


灯りに、梅野はつい、


近くの物置へ身を潜めた。

それは、長く密偵という


仕事をこなしてきたが故の

癖、なのであろうか………

(……別に、隠れること


なんてないのに…………)

とは思いつつも、やはり


急な灯りを見ると、途端に

《闇》へ身を潜めてしまう。


月の灯りもなく、ましてや

廊下の燭台の灯も届かない

真暗な物置部屋に、フッと

僅かに微笑んだ梅野の声が響いていた。


(馬鹿馬鹿しい…………)


………そして、


(………出よう。夜の探索

のためにも今は、仮眠を)

立ち上がりかけた、その時であった。


   ……スッ


「っ、……………!?」


正面の障子戸が、梅野の


意志より先に、開いたのは。


………間一髪。


驚いて、近くの食器棚へ


隠れた、梅野。


大して走ったわけでもない

のに、その心臓はドクン、

ドクンと煩い程に高鳴る。

すると、やがて物置部屋へ

一筋の灯りが走り、廊下


から二人の人影が足を踏み入れてきた。


息を呑み、密かに物陰から

逆光で見えにくい、その


顔へ瞳を凝らす、梅野。


小刻みに震える右手を


力任せに左手でねじ伏せ


ながら、眉間に皺を寄せて

は、ひたすら瞳を凝らす。

「……どうぞ。こちらどすぇ」


「すんまへんな、節介の


機会やのに遅れてしもて」

「……いいえいいえ。


皆さん、お待ちですよって。


ささ、どうぞ……………」

どうやら、声からして


現れたのは男女の二人組みらしい。


置屋も兼ねる店柄故に


最初は、店の遊女か芸妓が

馴染み客と逢引でもしに


来たのだろうと思っていた。


………しかし。


   ガタガタッ!


(………っ、な。あれは…)

慣れた手付きで、急に


こじ開け始めた床板の


隙間から差し込む灯りに


浮かんだのは、梅野の予想

を遥かに越えた、まさかの

人物であった。


床下から差す、緋色の灯を

浴びて、にこりと客らしい

中年の男へ微笑んだのは、

見間違えるはずもない……

「……おおきに。女将…」

(っ、《女将》……っ!?)

つい、一時程前に、みつを

見送りにきたはずの、この

店の女将………《ツル》。




そして、灯台と思われる


床下からの灯を受け、


物置部屋の土壁へ浮かんだ

のは、中年男と女将の人影

と、二人が大事そうに


懐から取り出した


……クルス(クロス)の蔭。










………一方。


「………っ。……ぅ……」





「………。起きたか……」

「…………っ!?」


………同じ頃。


渦中の中、みつは意識を


取り戻していた。
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