風姿華伝書

□華伝書145
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―…どうして…あの子は―

「……………」


その問いに、ピクリと


焼け焦げた柱の上に置かれた


先生の小指が、騒いだ。


……しかし、言葉はない。

ザワッと、吹き誘う風に


焦げ臭い、灰がちらほらと

混じりこんでいた。


優は両手の拳を握りしめる

と、溢れる涙を乱雑に拭い

大きく、息を吸い込んだ。

その姿を背後から、眺める

しかない、原田さんと


永倉さんの瞳へ、大きく


上下した、その肩が像を成す。


「……こうなったのも、


全て……あの子の…みつの

《定め》、です」


あれ程、大きく空気を吸って


いながら、そう呟いた優の

声色は余りにも小さなものであった。


ふるふると震える、その


双肩の傍らで髷から零れた

後髪が揺れを増していく。

卵……卵……と、朝一番に

新鮮な卵を売り歩く、振り

売りの掛け声が、静まり


返った朝の祇園を包みこむ。


紫から茜へと色を変えた


朝霧がスゥッと、先生の


黒髪の間を抜けていった。

そして…………


「……違う」


と一言、擦れ擦れ呟いた


先生の声色と共に、天高く

明け空へ吸い込まれていく。


その場にいた、三人の視線

が一気に先生を貫いた。


丸一日、聞かずにいた


その声色は、いつも隊士達

を扱く、筋の通ったもの


とは異なる、擦れ果てた


眼を閉じて聞けば翁とも


違わぬであろう程に、


細いものだったのである。

総司……と、鼻をすする


永倉さんの声が原田さんの涙を誘う。


二人とも、思いもしなかったのである。


《みつ》という存在が


これほどまでに、先生の


全てとなっていたことに。

「左之よぅ……これじゃあ」


―これじゃあ、


生ける屍じゃねぇか……―

「……八っつぁん」


後に、ポツリと口を開いた

永倉さんの言葉に原田さん

は何も答えることが出来なかった。


……何が、出来たというのか。


言葉を交わすことも、立ち

上がることも、生きること

さえ今にも、手放そうと


している沖田先生に……。

―……《一体、何が》…―





「………………っ!!」


    グイッ!


その《何か》、をして


やれたはずの人間はもう、いない。


「優ちゃ……っ?」


   バシッ!!


…………もう、………。


「っ、いい加減にしなさいっ!!!」


ガタンッ!!という大きな

音と共に、先生の身が


まるで羽の様に瓦礫の中へ崩れていった。


まさに、一瞬。


「いい?よく聞きなさいよ

この、大馬鹿者っ!!」


一瞬……のことであった。

それまで涙に暮れていた


はずの優が急に、先生へ


一気に歩幅を縮めたかと


思うと、次の刹那……。


「みつは《定め》と覚悟して


この仕事を引き受けたの。

それは無理強いだったとは

いえ、新選組のため、京の

人達のため。そして何より」


……いきなり、先生の懐を

掴んだ優が平手打ちしたのである。


「っ、沖田総司!!


あんたのためよっ!!!」

「……………っ」


起き上がる力もない中で


煤汚れた大きな肩がビクッと震えた。


その、見上げた瞳の先に


「それなのに……っ。


それなのに、一番…………

《よくやった》と誉めて


ほしい方に、このように


悔やまれては…………


あの子が浮かばれません!!」


真横から朝日を受け、


キラキラと涙を輝かせた


優が一人、肩で息をきらせていた。


グッと、先生の爪が煤けた

柱へ、食い込んでいく。


「っ、……………」


大した威力もないはずの


優に、叩かれた左頬が妙に

じんわりと痛みを増していた。


再び、血の味が……した。

「あの子は以前、話して


いましたよ。私は……」






『私は……沖田先生に


心から微笑んでいてほしいのです』






「……………っ」


―剣の才故に、多くの人の

生死と関わってきた、先生には


せめて、この場(屯所)だけ

でも、心から安らいで……

いただきたいのです―――

「っ、みつさ…………」


うぅ……と、原田さんの


慟哭が茜空へ消えていく。

その傍らの、篝から


立ち上るは……細煙。


「好いて好いて、惚れ抜いて


だから、その一つしかない

命も懸けることができた。

それでも先生は、まだ……」






―……宗次郎さん……――





「……悔やまれるのですか?」


……空耳か。


「…………………」









ふと……あの声色を聞いた気が、した。






 ……ン、カーン……
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