風姿華伝書

□華伝書145
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――卯刻。


初冬の、冷えた空気が霧と

なり、京盆地に右往左往、

濃淡を変えながら漂っている。


卯刻といえば、現代の


太陽暦でいう、早朝の大体

六時頃を差す言葉であるが

冬の始め故か、辺りはまだ薄暗い。


山の際が朧に輪郭を描き、

陽と霧が混じり合い、


紫一色を纏いながら、


北から南へ流れていった。

    ジャリ……


「………………」


そんな、素肌を小針で


つつくような底冷えする


祇園、かつての山吹屋の


敷地をのっしのっしと進む

女が、一人……。


パリッと糊付けされた


縦縞の留袖に、前髪を


ふっくらと立たせた江戸風

の奴島田が《粋》という


江戸の美意識を醸し出している。


再び、日和下駄が高鳴った。


女の名は…………


「っ、あれ?優ちゃ……」

かつて新選組の台所取締役

(笑)を努めた猛者、優。


焼け跡に一人残った


沖田先生を心配して一晩中

篝灯を灯し続けた原田さん

と永倉さんの瞳が、思わず丸くなる。


パチッと鳴った篝灯が……

紫の霧が濃くなるにつれ


次第に弱々しくなっていった。


どうした?と、眠りかけて

いた瞳を擦り擦り、飛び


起きた二人であったが


「……ちょっと、ね」


そう、一言たけ呟いた優の

眼差しに、そうか……としか


返しようがなかった。


キチッと整えられた眉と


二重瞼の瞳は既に、今にも

くっ付きそうな程、近く


なっており、その大きな


瞳は一本の矢の如く、


次第に近づいてきた背中を

ぶち抜いていたのである。

ザリッと、砂が弾けた。


たった四人しかいない、


かつての山吹屋跡が………

「沖田先生……」


俄かに騒つき始めていた。





―いつまで、《そこに》


座りこんでらっしゃる


おつもりですか………――





優はついに足を止めると


瓦礫の手前から、その中に

座りこんだまま動かない


先生へ一言、口を開く。


向こうの空が次第に、白け

始め、ぼんやりと灰色に


浮かび上がった、かつての

柱、階段、障子戸たちの


残骸の中で、先生は一人


埋もれるように太い柱上へ

力なく腰を下ろしていた。

無論。


「……歳三から事情を聞いて


貴方を長本邸へつれ帰る様

言われました。


さぁ、立ってください」


「………………」


その、返答はない。


ただ、代わるように先生の

長い黒髪が湿り気を纏った

風にひらひらと揺れるのみ。


焼けずに残った、庭の一角

で朝露に濡れた柊が、


カサッとその頭を上下させる。


    ガタッ


「なっ、優ちゃん!?」


優はついに、瓦礫へ手をかけた。


驚いたのは、原田さんと永倉さんである。


「危ないから、降り……」

「大丈夫ですっ!!」


暖を取ろうと、弱くなった

篝灯へ薪を足していた手を

止め、駆け出したが


女子とは思えない程の声で

二人を制した優の一声に


ピタリと、その足を止める他なかった。


湿り、つるつると滑る


足場の悪い中を進む、優の

背中が、妙に大きく見えて

仕方なかったのである。


それは、怒り故か………


それとも、哀しさ故か。


ともかく優は、当時としては


大きな身長を持つ身を


くねくねと捻りながら


次々と自分より大きな柱や

突き出した釘を越えていった。


そして…………






「………………っ」


久しぶりに眼にした先生の

姿に、息を飲んだ。


すっかり灰色になった爪、

だらりと無造作に広がった

黒髪、そして虚ろな………

生死を疑いたくなる程に


力をなくした、瞳。


瞼はただ、開いているのみで


瞳を守るという、本来の


役目は既になく、傷の所為か


白くなった頬の筋肉は固まり


その顔には気色というものが


全く見えなくなっていた。

そして、指一つ分程開いた

唇の端に、噛み潰したので

あろう、乾いた血を見た時

…………胸が、軋んだ。


ふと、先生の横顔が二重になる。


その血痕は恐らく、口を


一文字に結ぶ内に唇を噛み

しめ過ぎた故のものであろう。






……悔しい、口惜しい


――……くやしい……――





何も出来なかった、ことが

また、失った……ことが。

―悔しくて、憎らしい――

先生は言葉なく、涙なく


「………………」


……《泣いていた》のである。






「先生……。あの子が


どうして命をおとしたのか

御存じですか…………?」

「っ、……………」
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