『流れる紅』

□変わらぬ現実
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悪夢のような夜が終わりを迎えた。雨は晴れ、地上の草花が水の粒で飾られている。
しかし、レッドとコウガの闇は晴れなかった。光の届かない暗闇の中で、彼らの心は力なく漂っている。


「…夜が明けたな…。」


カーテンの間から差し込む朝日を見つめ、コウガが言った。レッドはゆっくりと体を起こした。薬が効いたのか、動いてもほとんど痛みを感じなくなっていた。


「コウガ、お前は…一週間どうするつもりだ?」


コウガの顔を見ながらレッドは言った。昨夜はまったく眠れていなかったので、翡翠の瞳は赤く充血していた。コウガに尋ねたレッドも瞳に力がなかった。普段はよく通るレッドの声も、小さく…僅かだが、掠れていた。


「どうって…。レッドこそどうするんだよ…?」


コウガの問いにレッドは虚空を見つめながら、諦めたように言った。


「俺は、皆に…旅に出るっていうつもりだ。…その方が誰も怪しまないし…何より、俺の気持ちが楽だからな…。」


「ピィ…。」


ピカがレッドの顔を覗き込む。黒の大きな瞳は揺れ、今にも泣き出してしまいそうだった。レッドはピカの顔に触れる。

…大切な、仲間。<ワーズ>になど連れて行きたくはなかったが、一部始終を見ていた彼らを置いていくわけにはいかない。イエローに…、ポケモンの思考を読み取ることができる少女に、このことが知られてしまう。…それだけは、あってはならない。<ワーズ>の存在を彼らに知られてしまうことは、すなわち彼らの死を意味する。秘密を知った者を野放しに生かしておくほど、<ワーズ>という組織は…デイトという男は甘くない。


「…そうか。俺はどうするかな…。トレーナーではないし…。」


悩むように言ったコウガに、レッドはふと疑問に思ったことを投げかける。


「そういえば、お前どこに住んでるんだ?カントー…じゃないよな。それだったら、すぐ俺に気付くはずだし…。」


するとコウガは、ああ、と返事をした。


「コガネだよ。そこの薬剤師のバァさんに世話になってる。…さっきお前に飲ませた粉薬、その人が作ったんだぜ?…効いただろ?」


くすくすと笑いながらコウガは言った。レッドは苦虫を噛み潰したような顔になった。

…確かに薬は効いたけれど、かなり苦かった。

レッドの様子に、コウガの笑みはますます深くなった。レッドの反応が昔と変わらないことに、なぜか安心した。


「良い人でさ。八年前、突然転がり込んだ俺を…家族みたいに接してくれたんだ。」


「コウガ……。」


そう言うコウガの顔は本当に嬉しそうで、その人がどれほど大切なのかが分かる。
レッドにとってのグリーンたちと同じ、かけがえのない存在。だからこそ、傷付ける訳にはいかない。八年という年月は、それだけの情を持つのに十分すぎた。


「結構、鋭い人だからなぁ…。黙っていくのが、一番良いんだろうけどさ…。」


コウガは自分の顔を手で覆い、溜息を吐いた。


「心配、かけたくないんだよ…。あの人は、母親みたいなもんだから…。」


「…母親か…。」


レッドは己の母親を思い描いた。もう、うっすらとしか思い出せないが、幸せな時間を家族と共に過ごした記憶はある。父と母、自分と・・・当時二歳だった弟。しかし、その記憶は霞がかかったようにしか思い出せない。顔すら、脳裏に描けないが…思いだすと心が温かくなる。きっと、幸せだったのだろう。幼き日の自分は。そして、あの頃の自分は、幸せな時間が続くことが当たり前だと思っていたのだ。


「わり…。レッドに言ってもしょうがないよな。」


「いや、気にすんな。…頑張れよ。」


何を、とは聞かなかった。コウガにはレッドの言おうとしたことが分かっていたから。コウガもレッドに言葉を返す。


「お前もな。…最後の日、またここに来てもいいか?」


「ああ。コガネより、こっちの方が人目が少ないだろ。それに…行きたい所もある。」


「行きたい所?」


コウガが疑問に思って、レッドに問う。レッドは短く言った。


「…あいつの墓。」


「っ……!」


コウガは息を飲んだ。そこは、自分が手にかけた少女が眠る場所。


「そう、か…。」


それ以外の言葉は見つからなかった。レッドの愛する人を、レインを殺した自分が何を言えるというのか。


「コウガ。お前、何考えてる?」


「…別に。」


レッドがコウガを見つめる。真っ直ぐな紅の瞳がコウガを射抜く。視線に耐え切れなくなって、コウガはレッドから顔を背けた。
レッドはコウガの様子を見て、己の発言を悔いた。まだ、過去の傷を引き摺っていたのか、と。あれはコウガの責任ではないのに。


「…お前も、来いよ。レインも…喜ぶ。」


「……。…あぁ。」


小さな声で、コウガは言った。その声が震えていたのは、決して気のせいではないだろう。けれどレッドはそれについて言及することはなかった。
 
陽が高くなってきた。カーテンを開けてみると、光が眩しいくらい目に飛び込んできた。


「レッド。俺はそろそろ行く。」


コウガは立ち上がり、レッドに向かって言った。レッドもソファから立ち上がる。ピカがコウガの肩に飛び乗り、名残惜しげに頬を擦りよせた。
コウガも、そんなピカに目を細めながら頭を撫でてやった。だが、別れの時間だとばかりに、コウガはピカをレッドの許へ追いやる。追いやる手は、限りなく優しかった。

レッドはピカを抱き上げると、コウガに微笑みながら一時の別れの言葉を紡ぐ。その笑みは、悲観の色を宿していた。


「ああ。一週間後な。」


「…おう。」


コウガはレッドに手を振り、コガネへと帰っていった。



コウガを見送った後、レッドは破壊されたドアの前に立った。ドアの破片があちこちに散らばっている。


「うゎ…。粉々じゃねーか…。」


ほとんど原型を留めていないドアを見て、レッドは深い溜息を吐いた。


「少しは手加減して欲しかったぜ…。なぁ、ピカ?」


「ピ…、ピカ・・チュゥ…。」


ピカは弱弱しい鳴き声を上げた。小さな体躯をレッドに寄せて、不安そうに己の主人を見上げる。
コウガが去ってから、レッドはいつもの調子に戻った。けれど、それは表面だけで…彼の瞳は泣きたいのを必死に堪えているように見えた。少なくとも、ピカやブイ、ニョロたちには。

ピカの視線に、レッドは苦笑を浮かべた。腰のモンスターボールに目を向ければ、全員がピカと同じ目でレッドを見ていた。


「そんな顔、しないでくれよ…。ほら、皆直すの手伝ってくれ。」


ボールからニョロとブイ、そしてフッシーを出した。ピカもその輪の中に入る。出された四匹は、レッドを心配そうに見ていたが、そうしていても仕方がないと判断し修理に取り掛かった。心に大きな不安と恐怖、悲しみを抱えながら。



陽が傾き始めた頃には、修理は大方終了していた。


「ふぅ。ご苦労様、皆。」


既にボールの中に入っている仲間に向かって言う。完全に元に戻った訳ではなかったが、十分だった。ドアが壊れた原因を悟られなければいいのだから。
また、今日誰もレッドを尋ねてこなかったのは幸運だった。特にブルーが来たら、あれこれ詮索されるのが目に浮かぶ。


「ま、これだけ直ればいくらでも誤魔化せるだろ…。それに…。」

もうここで暮らすことはないしな…。


小さな呟き。近くにいたピカたちにも聞こえないほどの小さな呟きだった。
 

深夜、レッドは家の地下室にいた。何年も足を踏み入れていないため、歩くたびに埃が舞った。奥に行くと、そこにあったのは鎖で鍔元を封印された剣。漆黒の鞘、そして柄の先端についた二つの玉が僅かな光に反射して輝いている。


「…久しぶりだな、{葬斬牙}…。」


静かに剣の名を呼んだ。{葬斬牙のレッド}、この二つ名の由来。
かつてレッドは<ワーズ>の中でデイトに次ぐ位置にいた。コウガと共に、デイトの右腕と左腕として存在していたのだ。そして今、また同じことを繰り返そうとしている。
ただ、あの頃と違うのは、総帥がいなくなったということ。本来、<ワーズ>を束ねる立場にあった総帥は、八年前の組織崩壊の際に死んだ。


「(…いや、違う。あれは、総帥が死んだから…起きたんだ…。)」


だが、それも今となってはどうでもいいことだ。過去を振り返っていたレッドは、そう自分に言い聞かせた。既に起きてしまった過去を、変えることはできないし、自分に何ができるわけでもないのだから。

――ジャラ…

葬斬牙を手に取り、ゆっくりと鎖の戒めを解いていく。何年も触れていないはずなのに、まるで身体の一部のように手に馴染んだ。


「(所詮、俺は人殺しなんだな…。何人も人を斬ったコイツを、懐かしく思うなんて…。)」


自嘲しつつ、レッドは全ての鎖を解いた。鞘から刀身を引き抜く。現れたのは、鞘と同じ漆黒の刃。刃こぼれひとつない、完璧な状態だった。


「さすが…、タクミさんの剣だな…。」


感嘆の息を零す。
タクミとは、<ワーズ>で使用されている武器を作る職人だ。彼の作る武器は多種多様で、<ワーズ>で使用されている武器は総て彼の作品だといっても過言ではない。もちろん、レッドの持つ葬斬牙も例外ではない。これは彼の作品の中でも、抜きん出て優秀な剣だ。


「…喜ぶべきか、恨むべきか…。どっちなんだろうな…。」


苦笑し、レッドは刀身を鞘に納めた。その動作に一切の迷いはない。そして、レッドは地下室を後にした。

…その手に、葬斬牙を携えて。






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