『流れる紅』

□優しい世界
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覚えている。光に満ちた優しい世界を、ずっと続くと思っていた幸せな日々を。


豊かな木々に囲まれた森で満面の笑みを称え、父親に飛び付く子供がいた。父親はそれを優しく受け止める。子供と同じ黒色の髪が太陽の光を浴びて輝いた。


「どうした、レッド。随分とご機嫌だな。」


子供を抱きかかえた父親、サカキは優しい眼差しを息子であるレッドに向けて声をかける。レッドは楽しそうな笑い声を上げて、サカキに弾んだ声で言った。


「母さんが、ご飯できたから呼んできてって。」
「そうか。わざわざすまなかったな。」


サカキは片腕でレッドを支えながら、レッドの頭を撫でた。子供特有のサラサラとした髪が指をすり抜ける。
レッドは父親の大きな手に撫でられ、嬉しそうに顔を綻ばせた。サカキも息子であるレッドの様子に優しい笑みを浮かべる。


「よし、戻るか。」
「うん!」


サカキはレッドを抱えたまま、真っ直ぐに歩み始めた。レッドは父親の逞しい腕に支えられながら、楽しそうに笑っている。
二人が歩くすれ違いざまにトキワの森のポケモンたちが草むらの中から顔を出した。二人を良く知っている彼らは襲い掛かることなく、微笑ましげに彼らを見ている。

レッドはポケモンたちに笑顔を向けながら、その小さな手を振った。人間とポケモンが共存している優しい場所がそこにあった。
やがて数分程歩いていくと開けた場所にでた。その空間の真ん中には小さな人家がある。
二人が人家に向かって歩いていくと、草むらの中から一匹のポケモンが飛び出してきた。黒い体躯に鋭い瞳を持つそのポケモンは、本来トキワの森にはいないはずのポケモンだった。


「あ、コクヤだ!」


レッドは出てきたポケモンに向かって嬉しそうに微笑む。コクヤと呼ばれたポケモンは腕に白い包帯を巻いており、歩き方が少しぎこちない。コクヤは怪我をして動けなくなっていた所をサカキに助けられた野生のニューラだった。


「大分回復したみたいだな。」


ゆっくりとこちらに向かって歩いてくるコクヤを見て、サカキは安心したように呟いた。降ろしてくれとせがむレッドを苦笑しながら降ろして、小さな息子がコクヤに走っていくのを見守る。
父親の腕から降ろされたレッドは、姿を現したコクヤに嬉しそうな表情を向けて近付いた。


「レッド、余り懐かせるなよ?」


コクヤと戯れていたレッドがあまりにも嬉しそうな表情をしているので、サカキは父親としてやんわりと忠告する。それというのも、コクヤは野生に返すことを目的としてここにいるポケモンだからだ。

シロガネ山の麓で見つけた当時のコクヤは、全身に酷い傷を負い、人間に対し異常なまでの警戒心を見せた。保護の為にやむを得ずボールへ入れはしたが、コクヤを持ちポケモンとして鍛えるのは無理だろう。人間への警戒心が強すぎるのだ。

コクヤを助けたサカキや、レッドを含めた彼の家族には幾分か警戒心は和らいだが、他の人間には警戒心を剥き出しにする。他の人間と関わることが常のトレーナーのポケモンとして、それは動きを先読みされる要因となってしまう。何より、人間といることを良しとしないコクヤを懐いているとはいえ、人間の傍に置くことはできないだろう。

サカキのポケモンにするにしても、家族のポケモンにするにしても他の人間と関わることができなければ、辛いのは他の誰でもないコクヤなのだから。


「二人共、帰って来たなら声くらいかけなさいよ。」


サカキが思考に沈んでいると、家の方から心地良いアルトボイスが聞こえた。その声色は少々の呆れを含んでおり、サカキは苦笑しながら謝罪する。


「すまない、フリージア。」


フリージア、と呼ばれたのは紅い髪の毛と紅い瞳を持つ女性だった。意志の強い紅の瞳は、コクヤと戯れているレッドと酷似している。フリージアは、レッドの母親であり、サカキの妻であった。


「全く…。早く来ないと、せっかく用意したシチューが冷めるでしょう。シルバーなんて、さっきから船を漕いでるわよ?」


家の出窓から顔を出し、フリージアは自らの夫と長男を見る。コクヤと戯れているレッドを見守るサカキを見ているのは、何とも心和む光景だが、早くしないと本当に料理が冷めてしまう。何より、さっきから船を漕いでいる次男が熟睡しかねない。


「それはマズイな。あの子が寝ると、起こすのが大変だ。」
「分かっているなら早く家に入ってよ。私たちはともかく、レッドとシルバーが食べ損なうなんて成長に悪いわ。」


少し厳しい口調でフリージアは目の前の夫を急かす。しかし、その口調とは裏腹に紅い瞳は深い慈愛を宿していた。サカキも、妻の瞳が宿す慈愛に気付き優しげな笑みを零す。出会った頃とは打って変わって母親らしくなった彼女に内心嘆息しながら、微笑ましいやり取りを続けているコクヤとレッドに近づいた。


「レッド、母さんとシルバーが待っている。コクヤを離してやれ。」


サカキを見上げるレッドはコクヤの怪我をしていない方の手を握っていた。コクヤもレッドに触れられるのは平気なのか、何の抵抗もせずレッドの傍らに腰を降ろしていた。


「…はーい。」


サカキの促しにレッドは名残惜しそうにコクヤの手を離した。掌に残るコクヤの体温が少しずつ冷めていくのが淋しい。

そんなレッドの表情に気付いたのか、コクヤはレッドの小さな手を取り、レッドの顔を戸惑いがちに舐めた。それに驚いたのはレッドではなく、サカキとフリージアだ。当事者のレッドはというと、コクヤの行為が嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべてコクヤに抱き着いた。


「…懐かせるな、と言ったはずなんだがな。」

「あんなに警戒心が強かったのに…。流石、という他ないわね。」


二人は困ったようにレッドとコクヤを見た。コクヤが戸惑いがちにではあるが、レッドには心を完全に開きつつある。人間不信を改善するには良い傾向であるが、いつかは野生へ帰すコクヤがレッドに懐いてしまっては、色々と面倒なことになりかねない。

心配と感心を織り交ぜた視線をレッドたちに向けていると、こつん、と何とも可愛らしい音が家の中から聞こえてきた。
嫌な予感がしたフリージアが振り返って見ると、先程から船を漕いでいた次男がテーブルの上に頭を置いている。テーブルに置かれた顔を見てみると、瞼は閉じられ、健やかな寝息が口から漏れていた。


「どうかしたのか?」
「あーあ…。シルバーが寝入っちゃったわ。」


苦笑いを零しつつ、フリージアは一旦窓から離れ、テーブルと頬を合わせているシルバーの元へ行く。フリージアはシルバーの肩を優しく揺さぶり、起こすために声をかけた。


「シルバー、お父さんもお兄ちゃんも戻ってきたから起きなさい。」

「…うー…。」


小さな呻き声を出すものの、シルバーが起きる気配はない。フリージアと同じ紅い髪の毛が幼いシルバーの頬にかかっている。フリージアはシルバーの髪の毛を耳にかけてやると、未だにテーブルと合わさっている頬を離すべく、シルバーを抱き上げた。


「サカキー!いい加減に戻ってきて!」


家の外にも聞こえるように、フリージアは大きな声でサカキを呼んだ。その声はしっかりとサカキに届いたようで、未だに戯れていたコクヤとレッドをやんわりと離してレッドを抱き上げる。

コクヤはしばらくレッドを心配そうに見つめていたが、やがて安心したのか、またゆっくりと草むらの中へと戻っていった。


「また苦戦してるみたいだな。」


コクヤを見送ったサカキは家のドアを開け、目に入った妻と次男の様子に苦笑を零した。
フリージアは悠々と入ってきたサカキに向かって、やや不満げに言葉を投げかける。


「あなたがさっさと来ないからでしょー。あ、レッド。ちゃんと手は洗いなさい。」

「はーい。」


サカキから下ろされたレッドは母親に言われた通りに手を洗おうと流し台まで走っていく。流し台に到着したレッドは手を洗おうと手を伸ばすが、身長が小さく蛇口まで手が届かない。

必死に手を伸ばす息子の様子にサカキは苦笑しながら、蛇口に手が届くように脇を抱えて持ち上げてやる。そうしている内に、フリージアの腕の中にいた次男も徐々に覚醒してきたのか、ようやく瞼が開いた。


「…おかあさん?」


目を擦りながらシルバー己の母親を見上げる。その瞳は輝く銀色。父親の持つ瞳と同じ輝きがそこにはあった。


「シルバー、ご飯よ。お父さんもお兄ちゃんも帰ってきたからね。」


不思議そうに自分を見つめる次男に優しく微笑みながらフリージアは言う。父親の手を借りて、ようやく手を洗い終わったレッドは母親に抱き上げられている弟に手を伸ばした。
シルバーは少し寝ぼけていたものの、兄に差し出された手を見るなり笑顔をになって、母親の腕から離れる。そして、自分よりも少しだけ大きい兄の手を握り、二人並んで用意されていたイスに座った。


「ほら、私たちも。」


フリージアは仲の良い兄弟の姿を微笑ましそうに見つめていた夫に声をかける。彼は妻の促しに頷いて、自らも椅子に腰を下ろした。
テーブルの上には温かなシチューが湯気を立てている。フリージアが椅子に座ったのを合図に、家族の食卓が始まった。


「いただきます。」


やや舌足らずな口調でレッドとシルバーが食事の挨拶をする。それを見届けた後、サカキとフリージアも食事を始めた。


笑顔の絶えぬ温かい空間。
どうしようもなく、愛しい人たち。
愛しい光の空間が、そこにはあった。

穏やかな日々は不変のものであると信じていた。


崩壊の音色が、すぐ近くに迫っていたことも知らずに。







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