朝、台所で俺が朝食を作っていると後ろから誰かが近づいてくる足音が聞こえた。 誰だろうと振り返ってみればそこには先輩の姿が。 おはようと先輩はにっこりと笑いながら挨拶をしているのに対して俺は驚きのあまり返事が遅くなった。 いつもならまだ寝ている先輩が起きているのだからそりゃ驚きもする。 そんな俺の態度に気がついたのか先輩はくすくすと笑いながら近づいてきた。 「ひどいなぁ、譲君。私だってたまには早起き位するよ。」 「え、あぁ、すみません、先輩。」 「別にいいよ、自分でも早く起きて驚いてるから。」 笑う先輩の横で俺はなんと言ったらいいかわからなくなっていた。 「それで先輩はどうしてここへ?」 「あ、そうそう。私、早起きしたから譲君のお手伝いをしようと思って。」 だめかな、と聞かれ俺が嫌だと言うわけがない。 むしろこちらの世界に来て二人きりという時間なんか無いに等しいのだから今を逃すわけがない。 それに全員分の朝食を準備することは結構時間がかかってしまう為先輩以外の人が手伝ってくれても嬉しい。 いや、一番嬉しいのは先輩が手伝ってくれることなのだが。 「なら私はこのお碗にお味噌汁を注げばいいかな?」 「はい、お願いします先輩。」 「任せといて、譲君。」 鼻歌を歌いながら先輩は俺の横で一つ一つ注いでいく。 俺もほかの事をしながら準備をしていった。 「そういえばさ、譲君って昔は私のこと名前で呼んでたよね?」 突然のことでまた俺は驚いてしまった。 今、何か口に含んでいたら間違いなく噴出していたと思う。 「な、なんでいきなり。」 「え〜、前から思ってたんだよ。どうしてかなって。」 確かに昔は先輩のことを下の名前で呼んでいた。 だけど俺が先輩に対する気持ちに気がついてからは苗字で先輩と呼ぶようになっていた。 ただ、恥ずかしくなっただけなのだが。 「ねぇ、譲君。たまには私のこと『望美』って呼んでみてよ。」 と、いきなりそういうことを言われて俺は焦った。 黙っていた俺を先輩は期待のまなざしで見る。 確かに俺は兄さんみたいに先輩のことを名前で呼んではみたい。 そう思ったことは何回もある。 しかしそう直ぐに呼べるわけもない。 俺はどうしたものかと考える。 ちらりと先輩に目をやれば‥‥‥じぃっとまだかと待っていた。 惚れたものの弱み、やっぱり先輩に俺は勝てそうになかった。 「わかりました、名前‥‥‥ですね。」 そして深呼吸をする。 いざ名前を呼ぼうとすると勇気がいるものだ。 握っている手は徐々に汗ばんできた。 「譲君?」 「あ、はい?」 「大丈夫?無理して名前呼ばなくていいよ。」 俺が嫌がっていると思っているのか先輩はごめんねと謝っていた。 そして注ぎ終わったお碗を運ぼうと俺に背を向ける。 その背中を見つめる俺はゆっくりと口を開いた。 「‥‥‥‥‥望美 。」 小さな声で言ったのだが先輩には聞こえていたみたいで俺の言葉と同時にゴトっという音が聞こえた。 驚き、音の方を見てみると先輩の手からお碗は消えていて味噌汁と一緒に床へと零れていた。 「大丈夫ですか!火傷は?怪我はありませんか先輩?」 近寄り声をかけたけど先輩は固まったままだった。 「先輩、大丈夫ですか?」 「えっ?あぁ、私は大丈夫だよ。そ、それよりごめん、お味噌汁だめにしちゃって。」 「良かった。先輩が無事ならいいんです。」 俺は無事な先輩にホッとし一緒に地面に落ちたお碗を拾おうとし、その間も先輩はずっと謝っていた。 「先輩、あとは俺がやりますので皆を呼んできてくれませんか?」 「‥‥‥もう戻ってる。」 「今、何か言いましたか?」 小さな声で何か言ったのは分かったのだが何と言ったのかは聞き取れなかった。 聞いてみても先輩は何でもないと首を振るばかりで答えてはくれない。 気になっている俺を余所に先輩は皆を呼びに行ってくると立ち上がり、俺も残りの準備をしないといけないなと思いお願いしますと立ち上がった。 「ねぇ、譲くん。」 引き戸に手を置いたままの先輩が振り返りちょっと赤らめた顔で微笑みながら言った。 「たまには‥‥‥下の名前で呼んでね。」 長い髪が宙に浮き見えなくなったと同時に俺の顔は瞬時に赤くなった。 暫らくの間先輩が出て行った扉の方を見ていた俺はゆっくりと動きまだ残っている朝食の準備に取り掛かった。 頭の中でさっき聞いた言葉が反芻する。 「相変わらず‥‥‥ずるい人だ。」 まだ赤いままの俺は近づいてくる複数の足音に手を早めたのだった。 |