宝物小説(戴き物小説)4

□甘いマフィン
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「今年も当然バレンタイン調理実習あるんですよね!?」
詰め寄ってくる女子に若林先生は苦笑する。チョコを持って来るのが職員会議で禁止になったので、このクラスは去年調理実習でチョコマフィンを作ったのだった。
「そうだな…他のクラスから苦情も来てないし。良いぞ」
若林は2月のカレンダーを見やった。今年の14日は日曜日。金曜日が飛び石なので、もとより集中力は期待できまい。何より、もうすぐ卒業を迎える児童達が喜んでくれるなら、と思う。
「先生、ありがとう!」
「先生、じゃあ作ったのあげるね」
みえみえのお世辞に、若林先生は仕方なく笑いながら、はいはい、といなす。愛想よく言い立てながらも、おそらくその通りになることはないのを、若林はよく知っている。実習で作るマフィンは1個。せっかく作った物をくれる者はほとんどいない。
 実際、去年に若林先生が貰ったマフィンは1個だけだった。サッカークラブの練習で、恒例のお弁当交換に、岬が持って来てくれたのだった。
 たった1つしかないマフィンを、岬が自分にくれたのだと思うと、その健気さに胸を打たれる。そして、若林先生が岬を家に呼んだのもその時だった。
 あれから、1年が経った。岬は毎日成長して、みるみる綺麗になる。正月以来岬を避け、見ないように、と思っていても、つい目を奪われる。すると、決まって、自分を見つめる悲しげな眼差しと視線が合う。自然を装って視線を逸らせながら、若林はその度に胸が締め付けられそうになる。岬を傷付けないよう、遠ざかることを決めたのは自分なのに、堪えられなくなっている。
 ずっと続けてきた弁当の交換も、6年生の引退とともに、終わりを告げた。もはや、若林先生と岬を繋ぐものは担任と生徒の関係に過ぎず、それとて3月には終わってしまう。

「今年もマフィンを作るぞ。上達具合が分かって良いだろ」
人にプレゼントしたい者ばかりではない。だが、若林先生の言葉に、クラスが盛り上がる。
「今年もあねごに奪われるな」
「あはは」
石崎の軽口に、周囲が翼を突く。そんな声をよそに、岬は若林先生を見上げた。正月以来、ほとんど会話もしていない。ごく普通の担任と生徒の状態だ。以前なら、問題が早く解けて顔を上げた岬に、若林は教卓から優しい笑顔を向けてくれていたのに。よく出来たな、そんな顔が見たくて、いつも頑張って来たのに。
 だが、今は避けられている。三ヶ月待ってくれ、と言っていたことも忘れたかのように、若林先生はほとんど目を合わさない。特におかしい訳ではないが、個人的な接触を避けられている、と岬は感じていた。
「岬くんは今年どうするの?」
翼は去年岬のマフィンが欲しい、と言った。あねごこと中沢早苗がそんなことを許すはずもなく、翼のマフィンが取り上げられて終わりだったのだが、翼は今年こそ、と思っているらしい。
「今年も父さんと分けるよ」
嘘をつくことに良心の呵責を覚えないでもない。だが、今年は先生にあげても良いんだろうか、そういう思いで胸がいっぱいになる。
「ふうん。去年も岬くんの美味しそうだったもんね」
「翼のはとんでもなかったよな。あんなの食えるのはあねごだけだぜ」
「え??っ!」
石崎の茶々の酷さに、翼が不満をぶちまける中、岬は膝に置いた手をぎゅっと強く握った。

 調理実習は無事に終わった。去年よりもドライフルーツ等の持ち込みが多かったのは、二年目の自信だろう。
「他のクラスから苦情が出ないように頼むぞ」
「はーい!」
念押しした若林先生の言葉に、勢いだけは良い返事が返って来る。日曜日はバレンタインデー当日。浮かれる気持ちも分からないでもない。教室を出て行く生徒と挨拶を交わす若林先生の前を、岬が通り過ぎた。
「先生、さようなら」
「気をつけてな」
僅かに顔を綻ばせ、どこか嬉しそうな岬に、少しだけ安心した。好きで目を背けているのではない。それでも、元気がないと後ろめたさが増す。
「はい」
珍しく、勢いよく教室を出た岬に、心は落ち着かない。岬が笑っているだけで、心はざわめく。
 全員が帰った後、若林先生は教室を出た。職員室の自席に戻ると、小さな紙袋が置かれていた。
「岬くんが提出物出しに来てましたよ」
隣席の同僚に教えられるまでもなく、見当がついた。良い焼き色の着いたマフィンは甘い香りを漂わせる。

 どれだけ遠ざかろうとしても、どうしても心は動く。好きだからこそ、大切だからこそ、手を触れてはいけないのだと、若林先生はきつく自分を戒める。それなのに、甘いマフィンの香りに、去り際の岬の笑顔が思い出され、我知らずつい笑みがこぼれてしまうのだった。



(おわり)
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