宝物小説(戴き物小説)5

□おもかげ抄
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「先生、今日もお洗濯ですか」
隣の浪人がいつもの通り脇に盥を抱えて出て来たのを見て、滝は声を掛けた。
「おう。今日は褌の乾きも良さそうだ。なあ、岬」
浪人は陽気に笑って、家の中に呼びかけると、長屋の井戸から汲み上げた水を、これまた豪快に盥にあけた。
 この浪人はこの界隈ではちょっとした有名人である。数年前にふらりとこの長屋に来て、大家の危難を卓抜な剣の腕前で救って以来、乞われてそのまま住み着いている。やたら剣の腕が立つのと、品のある物腰から、先生と呼ばれて、慕われている一方で、長屋のかみさん連中には評判が悪い。というのも、この先生ときたら、風采が立派で男前が良いくせに日がな一日奥方の名前を呼んでいる。そのくせ、その奥方の姿を見た者が誰もいないとあって、風にも当てぬ溺愛ぶりとやっかみ半分に揶揄されているのだった。当の本人は、周りなど気にする風もなく、洗濯に門掃きに買い物と家の雑事をこなしている。
 浪人とはいうものの、この若林には最近仕官の話が持ち上がっている。この潘の国家老の見上を、これまた行きがかりで助けてから、色々行き来しているのであるが、その縁で潘の剣術師範としての仕官を勧められているのであった。

 今日も若林は、見上に呼ばれて、武家屋敷が軒を連ねる一角でも一際大きい屋敷を訪ねていた。見上は、仕官の話はともかく、若林の人柄を買っており、諸国を歩いた見聞を知りたがった。いつものように客間に通されて待っていると、茶を運んで来たのは、この家の娘と思しき女性だった。
「あいすみません、父は急な主命で家を空けております。暫しお待ちを」
そう言って茶を差し出した途端、彼女は顔を強張らせ、目を見開いて、後退りで出て行った。
 若林がいくら世間が狭いといっても、付き合いのある国家老の娘若島津の評判位は耳にしたことがあった。美しいだけでなく、女だてらに腕も立つ、ただ変わっていて縁遠い、という噂である。なるほど、変わった奴だと呆れながら、若林は呟いた。
「お前もそうは思わんか、岬」

 一方、若島津は仏間に篭り、祖母の位牌に手を合わせていた。
 若林という浪人を父が気に入っているのは知っていた。あわよくば、自分の婿にと望んでいることも。若島津は気が進まず、挨拶すらしたことがなかったのだが、今日顔を合わせた時に、気付いた。

 若林に寄り添う、愛らしいひとに。

 優しい面差しの女性は、若林の隣に座り、微笑んでいた。例えるならば桜のような、見る人を和ませる笑顔ではあるものの、その姿はうっすらと透けていた。
 元来、若島津はこの世ならざる者を見る時があった。武芸の師匠に戒められてから、それを口にすることもなくなったが、その力は失われていない。
 若林に妻がいるという噂はあった。見上の聞いたところによると、若林は妻を喪ったものの、妻に話しかけたり呼びかけたりする癖が治まらずにいるとのことだった。
 それにしても、ここまで明瞭に見えるのは、若島津にも初めてのことだった。長い睫毛や額の柔らかそうな和毛まで分かる。生きている時には、大層美しい人であったことも。
「あなた様は、私が見えるんですね」
美しい幽霊は、若島津を大きな目でみつめると、鈴を振るうような声を発した。幽霊の声を耳にしたのは、祖母以来であったため、若島津は髪の毛が逆立つような思いをしながら、仏間に下がったのだった。
「ねえ、見えているんでしょう」
襖を開けることなく、隣に現れた幽霊は、仏壇に手を合わせた後、若島津に話し掛けた。
「何しに来た」
家老の娘として育った上、武芸も嗜む若島津はそれでも並の娘ではない。気丈に幽霊に向き合い、天女のような笑顔に言葉を失う。
「夫に困っているのです」
幽霊は言った。

「夫は生家の道場の跡を継げず、仕官先を探すことになって、夫婦で旅に出ました。私は途中で病に倒れて、命を失いました。ところが、夫が私に執着するばかりに、未だ成仏できずにおります」
幽霊の身の上話に、若島津は言葉を失った。確かに岬は並の幽霊ではない。経帷子姿の霊が多い中、岬は水色の襦袢に白い紗を纏い、島田に結い上げた髪もつやつやしている。さしもの若島津もここまでの幽霊を見たことはない。
「申し訳ないのですが、夫に私のことは忘れて、幸せになってほしいと伝えてもらえませんか」

 若島津は引き受けるつもりなどなかった。若林は際立った容姿に剣の達人であるが、若島津は何故か虫が好かなかった。関わりたくもなかったし、父見上の傾倒ぶりも目に余った。だが、四六時中名前を呼ばれて成仏できない岬を哀れに思い、若島津は若林の説得を不承不承引き受けた。

「若林どの、話がある」
再度乗り込んで来た若島津に、若林は目を剥いたものの、見上の屋敷であるため、黙して聞く。
「実は、貴殿の妻女の岬どのから頼まれて…」
悩みながら切り出したところで、若島津は言葉を失った。幼い頃、若島津が祖母の幽霊を見たと言っても、師匠のほかに信じる者はいなかった。だが、目の前の若林ときたら、疑いの様子は微塵もなく、若島津を凝視している。その眼力のみで人を殺せそうな強さである。
「岬の声が聞こえるのか」
「ああ」
若島津は仕方なく頷くが、若林は膝を詰めて来る。
「もしかして、姿も見えるのか」
武芸に長けた若島津は常は恐れることなど殆どない。だが、詰め寄って来る若林の気迫には恐れ戦かずにはいられなかった。
「貴殿がそのように執着するから、成仏が叶わないと言っている。自分のことは忘れて、幸せになってほしいそうだ」
若島津は咄嗟に懐に忍ばせていた扇を取り出すと、若林に突き付けた。つい繰り出しそうになる拳の代わりとはいえ、不調法極まりない。それでも若林は咎めることなく、若島津の視線を追っている。そこに岬がいると悟ってのことだ。
「岬、そこにいるのか。…やはりお前は俺の側に居てくれたんだな。お前は本当に優しいなあ。だがな、岬。お前がいないのに、俺が幸せになれる訳がないだろう」
切々と訴える調子は、先刻までとは違って聞こえる。若林が妻を忘れかねているのは真実だと、若島津が思ったところで、いきなり肩を掴まれた。
「俺にも見えるようにしてくれ」

 数日後、旅仕度に身を包んだ若林が、見上の屋敷を訪れた。
「大変お世話になり、かたじけない」
「いや、こちらこそ、良い剣術師範を紹介いただき、痛み入る」
若林は仕官の道を捨て、若島津の師匠の吉良に弟子入りを決めた。山伏上がりの吉良は修験道の修業をすれば、幽鬼の如きも見える神通力を身につけられると教え、若林は幽霊と会うどころか、交わる方法をも身につける気でいる。
 若林は見上の厚意への礼に、故郷の道場の兄弟弟子を呼び寄せた。その日向と若島津が意識し合っているものだから、見上としては、剣術師範に推挙した上、婿取りになるのではと喜びを隠せない。
「若島津にも世話になった。悪いが、日向のことも頼むぞ」
頭を下げる若林の横で、更に輝きを増した岬が微笑む。幽霊と情を通じるなどと、唐土の本で読んだことしかない話であるが、若林ならやり遂げるに違いない、その時にはこの花のような笑顔も満開になるに違いないと若島津は思った。
 


(おわり)
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